魚津市でMagicショー開催?じゃぁ行こう!富山と長野を巡る旅[7日目①]白馬大橋、小谷温泉山田旅館
道の駅白馬での朝の散歩と飯田三十三仏堂
朝がきた。トレーラーのブラインドを開けると、雲は多いものの青空が見える良い天気。ならば、この近辺から山の写真でも撮ろうかと、トレーラーの外に出た。
道の駅「白馬」の駐車場を南へ歩くと、南端に飯田十三仏堂がある。
この仏堂の北側の壁には説明書きがあり、何故ここに十三仏が安置されているのか、ある信仰に基づく成仏の考え方と仏像安置の歴史的経緯が記されている。
人が亡くなったとき、どのように供養すれば故人を成仏させることができるのか「ある信仰に基づく考え方」とはこうだ。
故人が成仏するためには…
「初七日から33回忌までには忌日が13回ある。」ん?そうだった?まぁいいか。「まず、1回目の初七日には不動明王を供養する。そして2回目、3回目と毎回、違った仏像を供養していき、最後の13回目である33回忌には、虚空蔵菩薩を供養する」というものだ。そうすると、故人は成仏できる…。
そのため、この飯田十三仏堂には、江戸中期に作られた13体を超える仏像が安置されているのだ。
それにしても、これは厳しい教えだなぁ。33回忌を終えるのは故人がなくなってから32年後のこと。それまでの間を残された身内、あるいは関係者が供養してくれたら成仏できるというのだ。
これは、家制度がしっかりしていた時代の教え?
成仏は故人が生前に積み上げた善行や修行ではなく、はたまた常に念仏を唱え続けたからでもなく、後継者が32年間、供養を積み重ねてくれる事で得られるなんて…。こういうのを他力本願っていうのかなぁ。
それよりもなによりも、一番の疑問点は、忌日を初七日から33回忌までどう数えれば、13回になるのか?? だ!
初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、一周期、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌とこれだけでも15回ある。その上、百か日や二十五回忌を加えたり…。三十三回忌を弔い上げにしない場合は、三十七回忌、五十回忌と進み、ここで弔い上げ。どっちするかは施主の判断らしい。
とにかく、すべてを主義・主張を丸く収めるならば19体の仏像が必要だ。私はお堂の中を確認していないのでなんともいえないが、看板の記述を読む限り、その辺は心配ご無用のようだ。
道の駅の南側は冬の田園風景が広がっていた
「飯田三十三仏堂」の看板内容に深入りしすぎてしまったので、話題を元の「朝の周辺散策」に戻すことにする。
その「飯田三十三仏堂」の南側には、稲刈りしたままの茶色になった田んぼがひろがっており、その中を一筋の農道がひたすら続いているように見えた。
そして、向こうの方には実際に散歩を楽しんでいる人達の姿が見られたのだが…。
私としては、さっさと出発して風景写真に相応しい場所を探す方が良いように思えたので、トレーラーに戻って出発準備を始めた。
道の駅を7時40分に出て、白馬村方面へと走った。コースは以下の航空写真の青線部分。
またもや、十分な下調べをせず、適当に直感で走り出したので、場当たり的な進路選択になってしまった。昨日の反省がまったく活かされていない。
白馬大橋まで7.4kmしかないのに、到着したときは8時をまわっていた。途中2か所も停まって、もたついたせいだ。
左右の風景をチラ見しながら、クルマを可能な限りゆっくりと流す。あまりに遅すぎると後ろのクルマに迷惑になるので、後に渋滞が起こっていないかにも気を配る。そして、ときどき停まって抜いてもらう。当然ながら風景は刻一刻と変化していく。時折、「おっ」と思うような雄大な景色が目の前に広がることがある。
しかし、以前は「もうちょっと走ったら、もっと凄いところが現れるかもしれない…」とか「ここは停めにくい。停めやすい場所を見つけてから、写真を撮ろう」なんて考えて、悠長なことを考えていた。そうしているうちにシャッターチャンスを逃し、何度も悔しい思いをした。これからは瞬時に判断し、行動に移そう…、そう心掛けていた。
ザ・ビッグ白馬店付近を流しているとき、まさにそのような状況だった。
黒菱平あたりなのか、雪をかぶった美しい峰々が見えた。次の瞬間、ザ・ビッグの駐車場入口を見つけたので、とっさに左折し、クルマを駐車場に駐めた。そして、クルマを降り、歩きながら、ゆっくりと風景を見回す。
しかし、実際にそこでファインダーを覗いてみても、思ったような構図にならなかった。多くの場合、フレームの中に余計な建物や電線などが入り込んでしまうのだ。予想と実際はなかなか一致しない。仕方ないので、そこで撮るのを諦めて、再出発することになる。
結果的にその繰り返しになることも多いが、それでも構わない。いちいち停まって、その瞬間の感動した風景をできるだけ切り取れるようにしたい。
白馬大橋で白馬三山にかかる雲が空けるのをじっと待った。だけど…
連ドラ「スカーレット」はお気に入りの番組で、いつも見逃さないように気をつけていた。いつも放送5分前にアラームが鳴るようスマホをセットしているほどである。
しかし、今回はその習慣が裏目になった。
まずはスカーレットに集中!
白馬大橋を渡ったときには、すでに8時をまわっており、スカーレットが始まっていた。橋を渡り終えたところを右折し、土手にクルマを駐めた。そして、当然のことながらいつものように、しばしカーナビに映る「スカーレット」に集中した。
次は、美しい白馬三山の写真を撮ろう!
見終わった後、「次は、白馬三山の美しい姿を写真に収めるぞ!」と、意気込んでクルマを降りた。さっきまでは、多少、雲はあったものの、大勢は青空で写真撮影には問題ないレベルだと気にも留めていなかった。ところが、連ドラの後、クルマを降りると、短い間に状況は一変し、いつの間にか青空は劣勢に立たされ、代わって雲がここぞと幅を効かせているではないか! しかも、流れる雲は、わざとのように白馬三山を隠し、時折、ちらっとだけ見せて、まるで「いないいないばー」と言っているかのようだった。
しまった、もっと早く写真を撮るべきだったのかな?
連ドラ「スカーレット」は12時45分にも再放送があるが、今度、白馬三山全体を見渡せるように晴れ間が広がるのはいつのことか予測ができない。
その後、60分以上を白馬大橋の上で過ごし、白馬三山がその姿の全体を現してくれる瞬間を待った。だが、結果的にその希望は叶えられなかった。
今回は仕方ない。次回、もう一度チャンスを作って、チャレンジするぞと心に決めた。
この土手の道、通り抜けできないの?
そして、クルマに戻って出発。そのまま土手の道を進むつもりだったのだが…、何か違和感が…。前方にあるのは何?
なんとなく嫌な感じがしたので、クルマを一旦停めて、前方を望遠レンズで覗いてみた。すると、通行止めと立ち入り禁止の立て看があるではないか!
でもよかった、早くに気付けて…。もし、気付くのが遅れたら、Uターンできる場所までゆっくりと慎重に時間をかけて後退するしかない。あるいは、プライドを捨てれば、一旦、トレーラーを切り離し、それぞれ別々に転回させて、改めて繋ぐ…。となるのだが、1台ずつに分けてもUターンできない場所では、後退するしかない。
今回は、途中に道幅が広くなっているところがあって、なんなくUターンすることができた。切り離す必要も無く、時間をかけてバックする必要も無かった。
小谷温泉大湯元山田旅館へ
河川敷でUターンしてから40分、17.7km走って、道の駅「小谷」に到着した。
そして、隅っこにトレーラーを置かせて頂き、ヘッド車だけで山田旅館に行ってみることにした。
途中、中谷川を渡る石原橋から、天狗原山、乙見山峠方面の山の写真を撮った。
そして、ループ橋を渡り、小谷温泉大湯元山田旅館に到着
山田旅館には、江戸時代に建てられた本館を初め、明治、大正、そして平成に建てられた建物が軒を連ねて、昔ながらの湯治場の雰囲気を現代に伝えている。6棟が文化庁から登録有形文化財の指定を受けているそうだ。
人の気配を感じさせない静まりかえった温泉場に、屋根の残雪から染み出た雫が地面に落ちて、リズミカルな音を奏でている。
浴室のすぐ裏から自噴する源泉をそのまま湯炊きにして浴槽に落としている自然度の高い無調整の温泉。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)なので石鹸を使う必要が無く、浸かるだけで皮膚にある脂肪分や分泌物を洗い流してなめらかな状態にしてくれるそうだ。
美人の湯で切り傷ややけど、皮膚病にも有効。飲めば胃腸、肝臓、膵臓の働きも活発になり、糖尿病や痛風にも効果があるそうだ。
湧出地の泉温は44.5℃で、浴槽は平均41.0℃。自然湧出の完全掛け流し。
こんなに素晴らしい温泉の湯殿を独り占めの状態で、じっくりと使わせていただいた後、静かな休憩室でゆったりとした気分を味わうなど、贅沢で至福のひとときを過ごすことができた。
外に出て、建物伝いに展望露天風呂を探したが、残念ながら湯は張られていなかった。
展望露天風呂から眺める風景は格別。ここに浸かればまた違った風情を味わうことができただろう。
温泉で心地良い気分に満たされたので、心置きなく道の駅小谷にもどることができた。
越後の上杉謙信が、甲斐の武田信玄に塩を送ったという「塩の道」。歴史上の様々な出来事が現代にも息づいている。
そういえば小谷温泉大元湯山田旅館の源泉も、川中島の合戦のときに武田信玄の家臣が発見したと言われていた。
<後日談>
松川河川敷の進入禁止箇所をGoogleマップの航空写真とストリートビューで確認したら…
右下のストリートビュー画像の撮影時期を見ると2014年9月となっているので、6年前のものだ。そこには国土交通省が設置した看板があり、「これより先は、河川内です。一般道路ではありません。河川内での事故などの責任は負いません。」とある。その上、パイプのバリケードも設置されている。
しかし、その左側は何台ものクルマがバリケードを突破するために通り抜けたのであろう。ちゃんとした砂利道になっていた。
その後、道中央のパイプバリケードは、とある時に外されたのだろう。今ではバリケードを迂回する砂利道はなくなっている。
バリケードを突破したいと思う人達の行動力も、道路が不要になったときの自然の回復力も、どちらも一途でたくましい。