ふらり旅

長崎の精霊流しと瀬の本ユースの集会参加の旅[1日目]長崎市近郊の教会めぐりと市内ウォーク

長崎の精霊流しと言えば、「去年のあなたの思い出は~~」とさだまさしさんの曲を思い描く人もおられるだろう。しかし、実際には、あのメロディーに乗った歌詞から連想されるような、物静かで寂しげな雰囲気はまったくない。

この精霊流しのことを何にも知らない人にしっかり、目隠しと耳栓をして現場に連れて行き、精霊船が列をなして流れている県庁通りあたりで突然、五感を解き放ったら、いったいどういう反応を示すだろうか。遠くからは「ゴーッ」とか「ザーッ」という音に「バチバチバチバチ…」という音が入り乱れて鳴り響き、街中を霧のように漂う煙の中から、花火の光がそこかしこを照らしている。その中を山車を引っ張りながら練り歩いている様子を目の当たりにすれば、きっと驚いて、精霊流しってこんなに激しいお祭りだったんだと勘違いしてしまうに違いない。

しかし、そうは見えても、この精霊流しは、初盆を迎える遺族達が、故人を偲び、無事に極楽浄土へ辿り着くようにと願いを込めて執り行うれっきとした仏教の伝統的な行事である。

精霊船は大小様々。家族だけで担げる手作りの神輿のようなものから、四両編成の列車のように長く連なったものまで、実に多種多様だ。そのグループにもよるが、まず先頭に、家紋入りの提灯を持った喪主、あるいは地区の代表者が立ち、鉦を鳴らす人、精霊船を曳くお揃いの法被を着た人達が続く。その周りに花火を持った人達がいて、爆竹に着火しては、手に持ったまま「バチバチバチ…。」と鳴らしたり、周囲に蒔いたりする。また、別の人は路上に吹上げ花火を置いて火を着けたり、数十連発の打ち上げ花火を手に持ったまま、打ち上げたりもする。そうしながら精霊船とともに練り歩くのだ。

正直、私自身も、その現物を初めて目撃したときは、それ相当のインパクトを受けた。余りの激しさに、長崎の街が無法地帯化したのではないかと錯覚するほどだった。そして、味を占め、毎年連続して通ったものだ。長崎出身の知人に頼んで、練り歩く側に参加させてもらったこともある。

それほどにのめり込む祭…、いや、仏教の伝統行事なのだ。

私自身は元来、人で混雑する祭の類いをできるだけ避けて、どちらかといえばひっそりしているレアスポットばかりを探し求めるような性格なのだが、長崎の精霊流しだけは、心を打ち抜かれてしまったのだ。

だが、その後、タイミングが合わずに行けない年が数年続いた。そして、いつの間にか気持ちも遠のいていた。

ところが、友人たちとの食事会に参加したとき、ひょんな切っ掛けから、この話になった。意外なくらい長崎の精霊流しを知らない人もいるものだ。得意になって喋っていると、いつの間にか、皆が行きたい!ということになってしまったのだ。

長崎の精霊流しは、毎年、8月15日の夕方からと決まっている。今年は月曜日だ。しかし、引率者を任命された私自身は、8月16日(火)の11時に熊本県阿蘇郡南小国町で行われる集会に出席することになっていた。

「う~~ん、翌日、外せない用事があるので、日帰りの弾丸ツアーになりますよ。」
そう告げたのだが、それでも皆は一向に熱量は下がらない。それでも全然構わないと二組の夫婦は即答した。さらに、一組の夫婦は自分たちの車で参加して、さらに一泊して楽しんで帰るという。

それにしても元気な70代の方々だ。

このような経緯で、日帰りツアーを企画することになった。

計画としては、8月15日の早朝、福岡から2組を私のクルマに乗せて、日帰りで長崎まで往復し、翌日の早朝、単独で南小国に向かうことにした。当たり前だが、それ以外の方法は思いつかない。

ところが、精霊流し一週間前辺りになって、事態は急変した。メンバーの中に流行り病のPCR陽性者が出て、順送りに発症。私以外の人は、残念ながら長崎行きを諦めざるを得なかった。

私は、基本的に土日の夜は久留米の実家で過ごしているので、14日(日)も夜、21時頃に久留米を発って、大野城市の自宅に戻った。

さあ、一人残された私は…。長崎行きをどうするか???

明後日の午前中に南小国へ行くのは絶対なのだ。しかし、心に火が点いてしまった以上、長崎行きを簡単には諦められない。だが、15日を一日中長崎で過ごした後、その翌日午前中までに阿蘇郡小国町に行くことはなかなかハードだ。そこまでして、長崎に行く意味があるのか…。

気持ちが揺れ続けた。

2022年8月15日(月)の行動履歴

太良町、長崎県、熊本県
<車移動> 267 km 7時間7分 <徒歩移動> 10.9 km 3時間58分
自宅 1:17
↓ 車- 300 m 1 分 上大利3338号線 経由
トレーラーの月極駐車場 1:18~1:25
↓ 車- 83.3 km 1 時間 50 分 国道34号 経由
道の駅 鹿島 3:14~3:37
↓ 車- 4.0 km 9 分 国道207号 経由
道の駅 太良 3:46~8:16
↓ 車- 2.3 km 3 分 国道207号 経由
海中鳥居駐車場 8:19~8:57
↓ 車- 52.8 km 1 時間 24 分 国道207号 経由
Uターン 10:20~10:22
↓ 車- 550 m 2 分 県道45号 経由
カトリック三ツ山教会の入口 10:24~10:26
↓ 車- 280 m 2 分
Uターン 10:28~10:29
↓ 車- 600 m 3 分 県道45号 経由
カトリック三ツ山教会 10:32~10:53
↓ 車- 10.4 km 35 分 国道206号 経由
カトリック滑石教会 11:28~11:46
↓ 車- 400 m 1 分
ヴァンビィ 11:48~12:47
↓ 車- 15.0 km 28 分 国道202号 経由
黒崎永田湿地自然公園 13:15~13:53
↓ 車- 1.3 km 2 分 国道202号 経由
カトリック黒崎教会 13:55~14:19
↓ 車- 3.1 km 5 分 国道202号 経由
出津救助院横駐車場 14:24~14:26
↓ 徒歩- 290 m 18 分
出津教会堂 14:45~14:59
↓ 徒歩- 300 m 9 分
出津救助院横駐車場 15:08~15:12
↓ 車- 28.5 km 51 分 国道202号 and 県道112号 経由
長崎市営松山町駐車場 16:03~16:08
↓ 徒歩- 600 m 18 分
平和公園 16:26~16:28
↓ 徒歩- 400 m 10 分
爆心地公園 16:38~16:45
↓ 徒歩- 350 m 13 分
長崎原爆資料館 16:58~17:07
↓ 徒歩- 120 m 3 分
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 17:10~17:12
↓ 徒歩- 700 m 13 分 山王通り 経由
山王神社二の鳥居(長崎原爆遺跡) 17:25~17:27
↓ 徒歩- 57 m 1 分
山王神社の大クス 17:29~17:32
↓ 徒歩- 2.1 km 35 分 新浦上街道 経由
西坂公園 18:07~18:11
↓ 徒歩- 350 m 5 分 新浦上街道/国道202号 経由
長崎駅前高架広場 18:16~18:21
↓ 徒歩- 500 m 11 分 大波止通り/国道202号 経由
元船有料駐車場 18;32~18:45
↓ 徒歩- 500 m 9 分 大波止通り/国道202号 経由
大波止停留場 18:54~19:20
↓ 徒歩- 400 m 31 分
県庁坂通交差点 19:51~19:53
↓ 徒歩- 1.1 km 18 分 大波止通り/国道202号 経由
長崎駅前高架広場 20:11~20:13
↓ 徒歩- 3.1 km 39 分 新浦上街道 経由
長崎市営松山町駐車場 20:52~21:01
↓ 車- 41.8 km 1 時間 2 分 国道251号 経由
ドラッグストアモリ 高来店 22:04~22:35
↓ 車- 22.3 km 26 分 国道207号 経由
道の駅 太良 23:01~3:42

自宅

どうするのか、いろいろと悩みに悩んだ末、ようやく長崎に行く決心が付いた。トレーラーも引いて行く。一人で行くのだから、わざわざ福岡に戻る必要はない。長崎から直接、小国を目指すことにした。

↓ 車- 300 m 1 分  上大利3338号線 経由¥

トレーラーの月極駐車場

に着いたのは、1時18分。当然ながら主要道路の交通量もめっきりと減り、まわりは静寂に包まれている。こんな時は、アウトリガーを上げるのにも気が引けた。電動ドライバーの音が結構、響くのだ。ボタンを緩く押さえて回転数を控え目にし、音が響かないように気を使った。

夜は周囲が暗いので、トレーラー連結後の電装系の動作チェックは簡単だ。パワースイッチをオンにした後、フットブレーキを踏むと、トレーラーの背面にあるブロック塀が赤く染まる。右ウィンカーを付ければ、同様にブロック塀の右側が黄色く点滅するし、左ウィンカーも同様だ。

チェックOK。1時25分出発!

↓ 車- 83.3 km 1 時間 50 分 国道34号 経由

道の駅 鹿島

に到着したのは、3時14分

あまりに深夜に出発したので、後半は眠気を必死に堪えての運転だったので、無事に到着できたことに、旨をホッと撫で下ろした。

道の駅の駐車場をゆっくりと奥の方に進んで、駐める場所を探した。そして、奥の海側に一旦駐めてみた。「今日はここで泊まり、明日はトレーラーをここに残して、ヘッド車だけで長崎に向かうことにしよう。」
そう考えていた。

だが、まだアウトリガーは接地しなかった。

トイレを借り、その向こうにある夜の有明海を見て、トレーラーに戻った。

何故だろう…、なんとなく落ち着かない。
奥の駐車場には、クルマの停車位置を決める白線が描かれていない。

トレーラーをどう駐める?どこにどんな形で?
なんとなく駐めにくい…。
やはり、これがどうもこころに引っ掛かっていたようだ。

よし、そうならば、もうひとつ先まで行ってみよう。確か、道の駅多良までは、さほど遠くなかったはずだ。

ということで、次の道の駅まで移動することにした。3時37分だった。

↓ 車- 4.0 km 9 分 国道207号 経由

道の駅 太良

に到着したのは、3時46分。さすがに疲れた…。

今夜はもうこれ以上は動きたくない…。一番南端の中央辺りの区画にクルマを駐めた。

この道の駅に泊まるのは初めてだったので、何かがあったときには、サッと移動できるように、トレーラーは分離せず、アウトリガーも接地せず、そのままそーっと車内に入り込んで、ベッドに転がった。

とにかく、まずは眠ろう…。入眠は早かった。

起床したのは、7時30分頃。

とりあえず、顔を洗いにトイレに向かう。

トイレは両側に出入口がある。駐車場側に洗面台があり、その向こうに小便器と個室が並ぶ。その向こうの出入口を出ると、海沿いの歩道があり、その向こうは有明海だ。

海沿いの歩道からの眺め

入道雲の下にある黒い筋はきっと集中豪雨だろう。夏らしい風景だ。

海沿いの歩道から北東方向を臨む

そういえば、駐車場も濡れている。先ほどの雨雲がここを通っていったのかもしれない。

駐車場側
駐車場の南側は芝生の広場になっている
芝生の広場から道の駅全体を見る

道の駅太良は、国道からの進入路が駐車場の中央にあり、大雑把にいえば、その南側が普通車区画で北側が主に大型区画になっている。そして、北側の海側は一段高くなっており、そこにも普通車区画がある。駐車場が十分すぎるほどの備わっている。

北側にある海側駐車場のさらに北には芝生の広場と展望東屋がある

この芝生の広場は「展望ひろば」と名付けられている。

展望東屋からの眺め
展望東屋にはテーブルとベンチ、双眼鏡まで設置されている
展望東屋からの道の駅全景
展望東屋からのパノラマ案内
背振山から佐賀空港が見える方向
そして、島原半島の普賢岳方面
大型駐車場まで戻ってから、展望東屋を振り返る

広々として、気持ち良い道の駅だ。ここに、トレーラーを駐めさせてもらうことにした。

トレーラーを切り離して、出発準備を整える。

そして、8時16分にヘッド車単独で出発した。

↓ 車- 2.3 km 3 分 国道207号 経由

しかし、ものの3分ほど走ったところに、海中鳥居があるということなので立ち寄ることにした。国道から左折して橋を渡ると

海中鳥居駐車場

があった。そこに車を駐めたのが、8時19分

ここは、大魚おおうお神社の「海中鳥居」。この地域に伝わる言い伝えについては、Webサイト「観光たら」に詳しく説明されている。

海中鳥居
海中鳥居から沖ノ島までは6㎞
海中鳥居の南側には、海中道路がある
満潮時には、一部が海に沈む
道路上では、カモメが羽を休ませている
しかし、近づいていくと近い方から順次、飛び立っていく
最終的にはすべて飛び立つ…

海の中に沈んでいく道路。その先には電信柱だけが海面に並んでいる。この幻想的な風景に、しばし時を忘れて見入っていた。

カモメがすべて飛び立ったのを見てから、元の道を戻った。

海中鳥居の延長上には沖ノ島がある。ここから6㎞先だ。

沖ノ島に向かって並ぶ海中鳥居
あちこちにハートマーク
沖ノ島に建てられた沖ノ神瀬灯標
確かに沖ノ島は海中鳥居の延長上にある

そして、大魚神社の社殿は、国道を挟んで山側にあるようだ。

海中鳥居から沖ノ島までは、6㎞

海苔漁期である3月下旬~4月中旬頃、9月中旬~10月中旬頃、それに千乃灯篭まつり開催時間は立ち入りが制限されるらしいが、それ以外だったら、車中泊もできそうだ。

8時57分になった。さあ、出発だ。精霊流しは夕方過ぎからなので、それまでは長崎市近郊のカトリック教会を巡ることにしよう。まずは、三ッ山教会を目指す。

↓ 車- 52.8 km 1 時間 24 分 国道207号 経由

長崎県道45号東長崎長与線を快走し、犬継バス停を過ぎて左カーブに差し掛かったとき、右手の高台に三ッ山教会が見えた。

「しまった!登り口を通り過ぎたようだ。」

でも、引っ張っているわけではないから大したことはない。その先で

Uターン

できる場所を探し、元の道を戻ったのが、10時20分頃。

すると、犬継バス停に差し掛かるところの左手に登る坂道があり、「三ッ山教会入口」の看板があった。

「な~んだ、反対側からだとはっきり分かる。」

そこを左折して、坂を登った。

↓ 車- 550 m 2 分  県道45号 経由

すると、確かに、

カトリック三ツ山教会 の入口

と書いてある場所に到着した。10時24分頃だった。しかし、かなり細い道であり、左側にはガードレールすらない崖になっている。とても、普通車では侵入できない道幅に見えた。すると、私の車の後をさらに上の道に上がっていくワンボックスカーが、バックミラーに映った。

上にも、教会に至る別の道があるのかもしれない。
無理して進むのをやめて、先ほどのワンボックスカーを追いかけることにした。

しかし、行ってみると、その車は墓地のところに駐まっていて、子ども連れの一家族が、花を持って墓地に上がっていくところだった。

「すみませ~ん!」
窓を開けて、その一行に声を掛けた。
「三ッ山教会へはこの先から行けますか?」
すると、ご主人が、
「いいえ、ここからでは行けません。先ほど駐まっておられたところを、真っ直ぐ進めば教会です。」
あそこに停まっていたことに気付いていたんだ…。
「え~~っ、あんな細い道、クルマで行けるんですか?」
ご主人は、「頑張ったら、行けますよ。」と微笑んだ。

驚いた。あの道は車が通れる道なんだ…。しかし、間髪入れずに、奥さんが、
「一旦、県道まで降りて、右折したら、自動販売機が並んでいるところがあるんですけど、そこから入っていくと、教会の下の駐車場に着きますよ。そちらの方が行きやすいかも…。」
「あぁ、そうなんですね。ありがとうございます。じゃあ、そちらに行ってみます。この先でUターンできる場所ありますか?」
「ありますよ~。そのまま進んでいくと突き当たりのところで、Uターンできます。」
「そうですか。ありがとうございます。じゃ、行ってみます。」

↓ 車- 280 m 2 分

そう言って先に進んだ。話の通りの場所があったので、そこで

Uターン

した。10時28分だった。そして、元の道を下って行き、県道に出た。

右折すると、自動販売機の列。確かに入り口があった。そこを入っていくと…。

↓ 車- 600 m 3 分  県道45号 経由

カトリック三ツ山教会

の下の駐車場だった。10時32分、到着

天主堂の下にある駐車場
駐車場からの眺め

駐車場に車を駐め、階段を上がっていくと、天主堂の正面に出た。そこにも数台分の駐車区画があるのだが、ここに至る道が、先ほど進入を諦めた場所の続きだったのだ。

三ッ山教会の道案内のための石碑

この三ッ山教会道案内のための石碑は、1940年(昭和15年)に高見勝代氏によって製作されたと記されている。

そして、この駐車場からの階段を上がると、聖堂の正面に出る。

三ッ山教会 聖堂入り口
木場教會殉教者顯彰之碑

この石碑の中段には「福なるかな/義のために/迫害を/忍ぶ人」と刻まれている。これは、新約聖書マタイによる福音書5章10節の聖句の前半だ。新共同訳聖書で読むと

「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

となる。この三ツ山地区は浦上や五島とともに厳しい迫害を受けた場所だそうだ。Webサイト「おらしょこころ旅」によると、この三ツ山地区は、かつては木場と呼ばれ、イエズス会によって所轄されたキリシタンにとっては安住の地だった。ところが1867年に「木場三番崩れ」が起こり、多くの人々が獄死したのだ。この1867年は、江戸幕府が大政奉還を行った年であり、そのわずか6年後の1873年(明治5年)2月24日には、禁教令の高札が撤去されたのだ。その後、信徒を監視した役人の屋敷を買い取り、1883年に最初の教会が建てられ、その79年後である1962年に改築され、今の姿になったそうだ。

三ッ山教会 天主堂外観
礼拝堂内部
聖壇
後方壁面には聖画が掲げられている

会衆席の最後方に座って、数分間の黙想…。
だんだんと気持ちが落ち着いていく…。

「さあ、出発しよう。」
10時53分にこの場を後にした。

↓ 車- 10.4 km 35 分 国道206号 経由

そして、その次に向かったのが

カトリック滑石なめし教会

。到着は、11時28分。ここは、住宅街にある教会だ。

駐車場は、教会堂に向かって左手にあり、2階建になっている。パッと見た感じで、2~30台ほどは駐められそうだ。

礼拝堂もとても広く取られていて、敷地いっぱいに教会堂と信徒会館の建物が建てられている。

正面玄関から中に入ってみる。

シーンと静まりかえった礼拝堂は、周囲のモダンなステンドグラス越しに様々色彩の光が降り注いでいる。

礼拝堂内部

ここでも、しばらくの間、一番後の座席に座り、黙想した。

礼拝堂を出て、前室に行くと、教会堂入り口の両側に双塔があり、ここにも大きなステンドグラスが設置されている。

教会堂の正面玄関

立派な教会だ。

教会を出たのは、11時46分。

↓ 車- 400 m 1 分

近くにある

ヴァンビィ

で昼食をとることにした。11時48分到着。店舗入口横の壁に駐車場の案内板があった。店舗の隣にある屋根付き駐車場とその奥の空き地に駐められるようになっており、あとは、150㍍ほど離れた場所にある月極ガレージ滑石ファーストに3台分ある。

幸いにも、屋根付き区画の車がちょうど出たので、そこに駐めた。しかし、車を出たときにかなり激しい雨が降ってきて、傘無しでは隣の店舗入口までも移動できないほどであった。数分、足止めを食らった。

足止め中の道路の様子

ようやく小降りになってきた。このタイミングを逃さず、店舗入口に走る。そして、入店。

入口にほど近いテーブル席に通された。

奥の方に向かって、やや広めのワンルームにいくつもテーブル席が並んでいるつくりになっている。一番奥には、先客が2組ほど食事を採っていた。

私のところへ、お冷やとメニューが運ばれた。早速、ランチメニューを覗き込む。

う~む…。どれにしよう…。

トルコライスかぁ。懐かしいなぁ。昔は長崎に来たら、いつもこれを頼んでた。たくさん食べられるから…。

フロアは女性スタッフが一人で担当している。ある程度広い店内なのにも関わらず、客の動きに対する反応が早い。しかも、自然。

目をそちらに向けると、サッとオーダーを聴きに来てくれた。

トルコランチをオーダーした。

感じの良い店員さん。厨房の男性とご夫婦だろうか…。

テーブルの上には、開店10周年の記念団扇が置かれている。“ご自由にお持ち帰りください。”と書いてあり、良く見るとワンドリンククーポン付きになっている。

クーポン付きの小さな団扇
オーダーしたトルコランチ
コーヒーはアフターにした

あとから運ばれてきたコーヒーを頂いた。満足。

「ご馳走様」

PayPayでの決済可能。会計を済ませて、12時47分に店を出た。

もう少し、教会めぐりをしよう。

ヴァンビィの外観

↓ 車- 15.0 km 28 分 国道202号 経由

さすがに、睡眠不足の中の昼食後のためか、睡魔に襲われた。

とっさに見つけた

黒崎永田湿地自然公園

の駐車場に車を駐めて、仮眠をとることにした。

滞在時間は、13時15分から53分までの40分間弱、ぐっすり寝たのでリフレッシュできた。

↓ 車- 1.3 km 2 分 国道202号 経由

カトリック黒崎教会

に到着したのは、13時55分。ここは、高台にあるレンガ造の聖堂だ。

Googleマップでも確認ができるように、駐車場は聖堂北側と聖堂東側の一段下の2ヶ所。北側には15台ほど、東側には8台分ほどの駐車区画がある。

東側一段下の駐車場に車を駐めて、階段を上がったら、聖堂の正面に出た。

黒崎教会のGoogleマップ航空写真
黒崎教会の聖堂入り口
聖母マリア像の下に記された教会の歩み

カトリック黒崎教会の歩み
1571年(元亀2年)1月下旬  カブラル神父らが外海地方を布教。各地に15の教会ができた。その後、厳しい弾圧の中でも日本人宣教師バスチャン、次兵衛神父らの指導で子孫に信仰継承。
1865年(慶応元年)  信徒発見
1871年(明治4年)から新聖堂完成まで、湯穴に成ヨゼフによって捧げられた聖堂があった。
1887年(明治20年)  黒崎小教区として独立
1897年(明治30年)  信徒が増え、ド・ロ神父の指導で聖堂建設を計画。信徒総出で3年がかりで敷地造成
1899年(明治32年)9月30日 聖堂建設着手。しかし、資金難で一時中断。
1920年(大正9年)12月18日 こどもまで煉瓦運びの奉仕をするなどの苦労の末、現聖堂が竣工。ロマネスク様式赤煉瓦造り。翌、19日、コンバス司教によりイエズスの聖心に献堂。
1946年(昭和21年)  アンジェラスの鐘、新たに設置。
1955年(昭和30年)  司祭館改築
1962年(昭和37年)  共同墓地聖地
1975年(昭和50年)  教会霊園として拡張整備
1989年(平成元年)7月~1990年5月  聖堂と石垣の改修
1994年(平成6年)12月  信徒館落成
1997年(平成9年)3月  駐車場などの周辺整備 計画以来10年間の大改修が終了
2000年(平成12年)  改修記念としての、この記念碑を設置

聖堂前に設置されている記念碑の文面より
聖堂内部の中央部
聖堂内部の右側

いつもの如く、礼拝堂の最後部の椅子に座って、黙想する。静かな空間で心を落ち着かせる。

聖堂の右側外壁面

外に出て、右側面から北側に歩く…。

聖堂の北側
聖堂の北側にある駐車場

階段を降りて、元の駐車場に戻る。そして、車に乗り込んだ。14時19分、出発。

もう一箇所だけ廻ろう。出津教会だ。

↓ 車- 3.1 km 5 分 国道202号 経由

出津救助院横駐車場

に到着したのは、14時24分。ここから車道を30㍍ほど上ると、ド・ロ神父記念館がある。今日は、時間が無いのでここはスキップして、更に10㍍上がると、「歴史の小路」と呼ばれる歩道がある。ここを220㍍ほど歩くと、出津教会に着く。

さて、出津と書いて何と読むか?? これは、「でづ」でも「いづ」でもない。なんと、「しつ」が正解なのだ。長崎の難読地名のひとつ。

ド・ロ神父記念館から歴史の小路を通って出津教会までの位置関係
「歴史の道」から出津教会を望む
「歴史の道」の解説板
出津教会までもうちょっと…
この茶色の建物は集会所かな?

↓ 徒歩- 290 m 18 分

出津教会堂

には、14時45分に到着。

出津教会の聖堂入り口
礼拝堂内部は和風の面持ち…
出津教会の左側側面
出津教会堂の解説板

出津教会は、ユネスコの世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する構成資産「外海の出津集落」に包括された教会で、国の重要文化財に指定されている。

1879年(明治12年)に、外海地区の司祭としてフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父が赴任
1882年(明治15年)に、ド・ロ神父らの設計・監理により教会堂が建設。
1891年(明治24年)に奥へ祭壇部を拡張。
1909年(明治42年)に玄関とその上の鐘塔、尖塔を増築。両側に双塔を有する珍しい外観の現在の姿へ
外壁は、レンガ造り、玄関周りは石造り、屋根は桟瓦葺き。内部は木造、三廊式の平面、露出した木部には木目塗りを施す。天井は隅に小さなむくりがある平天井で、漆喰塗り。内外の低平な姿は、外海に面した強い風に配慮したと言われている。
明治前期に建設された貴重な初期教会堂の1つで、拡張も同一設計者による均整を保った拡充が図られた大規模建築であり、長崎地方における初期教会堂の原型と進化を示すもの。
日本では17世紀から19世紀にわたって禁教政策が展開されたが、1873年(明治6年)にキリスト教が解禁されると、出津集落の潜伏キリシタンは段階的にカトリックに復帰していった。

解説板では、“集落を見下ろす高台に建てられた出津教会堂は、出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している”と締めくくっている。

出津教会右側側面
聖壇側の外(東側)にあるマルコドロー神父之像と中村近蔵翁之像と聖句

聖句の石版には、マタイによる福音書25章40節の聖句が刻まれている。これは、マタイによる福音書24章から25章に掛けて、イエスキリストがオリーブ山に座っておられたときに弟子達に語られたたとえ話や最後の審判ついての話の一節だ。

◆すべての民族を裁く
31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

新共同訳聖書25章31節から46節
聖堂聖壇側の外壁
聖壇側の外には「ルルドの聖母マリア」像がある

14時59分に、この階段を降りて、信徒館の横を通り、「歴史の道」へ戻る。

歴史の道入口まで戻ってきた
ドロ神父記念館の入口前
そこにあるド・ロ神父の像
出津救助院の解説板
出津救助院は道向かいにある

↓ 徒歩- 300 m 9 分

出津救助院横駐車場

に戻ったのは、15時08分。さあ、そろそろ長崎市の市街地に戻ろう。まだ、時間的に余裕があるので平和公園に近い松山町駐車場に車を駐めて、国際通りまで徒歩で向かうことにした。

↓ 車- 28.5 km 51 分 国道202号 and 県道112号 経由

長崎市営松山町駐車場

に到着したのは、16時03分。ここは、パークアンドライド駐車場として、22時までの利用だと、2時間以上の最大料金が620円になっているので、お得なのだ。

駐車区画はJR長崎本線高架下にある

クルマを降りて、徒歩移動開始だ。第一駐車場入口のゲートバー横を通り抜ける…。

長崎電気軌道平和公園停留所の踏切を渡って、松山町交差点の横断歩道を渡ると平和公園の入口に着く。

松山町交差点
平和公園のエスカレーター
途中は、段差のない動く歩道状態になる

エスカレーターで上ったが、もう一度降りて、階段で上がる。

階段側から見るとこんな感じ

そして、階段中央の踊り場から左に入る側道を進む。

地球星座

地球星座」は長崎市が初めて姉妹都市提携を結んだアメリカ合衆国セントポール市から『世界平和シンボルゾーン』建設の趣旨に賛同し、両市の友好の証として送られた作品。七ツの大陸を表す七人の人間で世界の平和と連帯を著している。1992年10月。ポール・グランランド作。

∞無限

∞無限」は、トルコ共和国の首都アンカラ市から同国と日本の修好100周年を記念して、長崎市が計画している『世界の平和シンボルゾーン』建設の趣旨に賛同し、寄贈された作品。男性と女性が手と手を繋いでいる姿は、全人類の平和と協調を著している。1991年3月。エシュベル カラヤルチン作。

乙女の像

乙女の像」は、長崎市がすすめている「世界平和シンボルゾーン建設計画」の趣旨に賛同し、中華人民共和国から中国日中友好協会を通じて寄贈された作品。人類の平和と末長い日中友好を願う中国人民の真心を表わしている。1985年7月。大澂(ツァオ・タォ・ツォン)他作

↓ 徒歩- 600 m 18 分

平和公園

平和祈念像前に着いたのは、16時26分。

今日でも、この像の前には多くの観光客が訪れて、この前で記念写真を撮っている。

制作者は、長崎県南高来郡旧南有馬町(現:南島原市)生まれの彫刻家、北村西望氏で、「像の柔和な顔は神の愛と仏の慈悲を、天に向けて垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、横にした右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている。」とされている。

1951年から4年の歳月を掛けて制作され、当時の価値で3000万円の制作費はすべて広く一般からの募金で賄われた。台座の2000万円は市の予算が充てられた。

しかし、像が完成した1955年当時は、原爆投下から10年しか経っておらず、日本の詩人でありエッセイスト・作家であり、被爆者である福田須磨子氏は、1955年8月、朝日新聞に平和祈念像建設に疑問を投げかけた詩「ひとりごと」を投稿。

その内容は、

何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です

だ。

昭和30年頃の100万円は今の貨幣価値で言うと少なく見積もって2000万円だという試算があるので、当時の3000万円は、現在の価値に換算すると6億円以上になる。

日本被団協が結成されたのは、1956年。それ以前の被爆後10年間、被爆者に対する公的な救済制度はなく、GHQがプレスコードによる原爆報道を事実上禁止したこともあって、被爆者の窮状はおろか、健康被害や差別の実態について、地域外の一般庶民にはほとんど知らされてはいなかったようだ。

そのように、被爆者達が苦しい生活を強いられているときに、巨額の募金が彫刻像づくりに使われたとなると、当事者の心痛は想像に難くない。

しかも、制作者の北村西望氏は、戦中・戦前には戦意高揚を意図した勇壮な男性像を数多く手掛けていたのに、戦後は平和像か!という変わり身の早さにも不信感があったのではないだろうか。

1973年(昭和48年)には、市民団体により長崎市議会に「平和祈念像撤去に関する請願」が提出され、裁判に持ち込まれた。結果は原告敗訴で、像の撤去は免れたものの、被爆者を初めとする一部の市民からは根強い反発があることが伺える。

同様に、北村西望氏の弟子である富永直樹氏が制作した平和の母子像。これを、被爆50周年記念事業として、原爆落下中心碑を撤去して、挿げ替える計画だった。しかし、これも市民運動の猛反発を受けて、方針転換。爆心地標柱はそのままにして、像は爆心地公園の片隅に設置されることになった。

男性裸像や母子像など人物の彫刻作品は、芸術的には優れていても、観る者によっては、作者の制作意図とは異なるイメージを抱き、時には強い拒絶反発を示すことがある。したがって、万民共通の祈りの場にはなり得ない。

特に偶像崇拝を認めないキリスト教関係者にとっては、根強い反発があるのも当然だ。

それが理由かどうかは明確でないが、1981年2月に長崎を訪れた法王ヨハネ・パウロ2世と2019年11月に来崎したローマ法王フランシスコは、両者とも、平和祈念像には立ち寄らなかった。

私自身も記念像は遠くから眺めただけで、反転し、中央の通路を平和の泉方面へ進んだ。

平和祈念像前の広場
長崎刑務所浦上刑務支所拘置所の基礎部分の遺構

浦上刑務支所跡の次にあるのが、長崎の鐘。

長崎の鐘
平和を告げる「長崎の鐘」を鳴奏会の案内

長崎原爆が炸裂した1945年8月9日の11時02分を記念し、この場所では、①毎月9日の11時02分と②9月21日の11時02分、そして、③8月6日から9日は、11時02分からの30分間のうちに4回打鐘する取り組みが続けられている。

平和の泉、4ヶ国語の解説板
平和の泉
平和公園「願いのゾーン」歩行ルート

平和の泉を通って、エレベーターを降りる。そして、松山交差点の横断歩道を南に渡ると、爆心地公園の入口がある。

↓ 徒歩- 400 m 10 分

爆心地公園

への到着は、16時38分。小雨がパラついてきた。


原子爆弾落下中心碑と浦上天主堂の被爆遺構
浦上天主堂の被爆遺構と解説板
解説板の内容

浦上天主堂は、1895年(明治28年)に起工。信徒たちの献金と労働奉仕によって建設が進められ、1914年(大正3年)に献堂式が挙行された。さらに建設工事は続けられ、正面の双塔が完成したのは1925年(大正14年)。

そして、1945年8月9日11時02分、南西方向に500㍍離れた爆心地上空500㍍の地点から、閃光とともに発生した熱線と爆風を受け、天主堂は大破。まわりの壁の一部を残すのみとなってしまったのだ。

30年という歳月を掛けて作られた東洋一の大聖堂が、たったの築後20年で破壊されてしまったのだ。

廃墟となってしまった浦上天主堂だが、当初はこれを現状のまま保存して、後世に核兵器の悲惨さと非人道性を伝える被爆遺構とする動きがあった。しかし、それも様々な事情により、実現しなかった。

もし、これが叶っていたら、広島原爆ドームに勝るとも劣らない核兵器廃絶運動のシンボルになっていたことだろう。

残念でならない。

詳細についてはWikipedia「カトリック浦上教会」原爆以降保存問題を参照してほしい。

移設された旧村上天主堂の被爆遺構
下の川に降りる階段の脇にある「被爆当時の地層」
「被爆当時の地層」が覗ける窓
「被爆当時の地層」の様子

被爆当時の地層を窓越しに眺めてから、横を流れる川に向かった。

ここの河岸にも、一部は被爆当時の石が残っているらしい。

下の川には、壁画が掲げられていた

今回は、降雨により水かさが増しているだけでなく、歩道の石畳が濡れて滑りやすい。用心をして、そこを歩くのはやめた。

元来た階段に戻り、爆心地公園の川沿いを歩く。下の川の両岸には、平和を願ってこどもたちが描いたキッズゲルニカの巨大絵画が所狭しと掲げられていた。

そして、小さな橋を渡った。

長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑
長崎原爆朝鮮人犠牲者の碑の説明板

1910年(明治43年)8月22日、日本政府は「日韓併合条約」を公布し、朝鮮を完全に日本の植民地支配下に置いたため、自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失った朝鮮人たちは日本に流入した。 その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦当時は実に2,365,263人、長崎県全体に存在していた朝鮮人は約7万人という多数に上った(内務省警保局発表)。そして長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立てなどの作業に強制労働させられ、1945年(昭和20年)8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。
 私たち、名もなき日本人がささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた1万余の朝鮮人のために、この追悼碑を建設した。かつて日本が朝鮮を武力で威嚇し、植民化し、その民族を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てについに悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を、彼らにお詫びすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から愛してやまない。
  1979年8月9日
     長崎在日朝鮮*の人権を守る会

説明板の日本語部分
建設労働者職人 原爆殉難者慰霊 「不戦平和の塔」
電気通信労働者 原爆碑慰霊碑
慰霊碑の脇に設置されている説明板

説明板にはこうある。

 この慰霊碑は、1945年8月9日の原爆投下により尊い命を奪われた電気通信労働者の御霊をなぐさめ、二度と過ちを繰り返さない決意を明らかにするため、被爆後30年に当たる1975年、全国の電気通信産業で働く人々の状態によって建立されました。
 台座は三つの面が組み合わされています。
 その一面は、原爆被爆者を表し、
 その一面は電気通信労働者を表し、
 その一面は、核廃絶恒久平和を願う市民(国民)を表しています。
 ブロンズは「平和の炎」を造形したものです。
「原爆被爆者」と「現在そして未来をも電気通信業務に働く労働者」と「原爆許すまじ、核廃絶、世界の恒久平和を達成するために手を取り合う、全ての市民」が、がっちりとスクラムを組み、どっしりと重い「平和の炎」をかつぎ、高くかかげてその日まで歩み続けよう、との誓いをこめた姿を象徴したものです。
  被爆後50年
  1995年8月9日
  全国電気通信労働組合

電気通信労働者 原爆碑慰霊碑 の説明板

この文章の中で、話題に上る文言は、「二度と過ちを繰り返さない」という表現だ。広島の原爆死没者慰霊碑にも同じ表現がある。

その、「二度と過ちを繰り返さない決意」とは、誰がした決意なのか、過ちとは何か、が話題になる。

「過ち」が原爆投下のことならば、それはアメリカがしたことであって、日本人が「過ちを繰り返さない」というのはおかしい。いや、そうではなく「原爆投下を招く戦争のこと」だとすれば、「原爆投下は日本人が招いたことだと認めた」ことを宣言していることになる。それらのどちらも納得できないという議論だ。

それについて、広島市のWebサイトにある「よくある質問と回答」には、こう記載されている。

 碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている。

広島市の「よくある質問と回答」の一部抜粋

つまり、主語は「人類すべての人」であり、過ちとは「戦争」という紛争解決の手段のことなのだ。

理想過ぎて非現実的だと思えてならないが、この崇高な目標を掲げて歩む姿勢を決して否定したり、嘲笑てはならない。

「平和を祈る子」の像

原子雲の下で
母さんにすがって泣いた
ナガサキの子供の悲しみを
二度と、くりかえさないように

大砲の音が
二度となりひびかないように
世界の子供のうえに、いつも
明るく太陽が輝いていますように

長崎平和の折鶴会

「平和を祈る子」の像の碑文
「桜の記念碑」と「長崎誓いの火」

階段を上って、中段のところにある誓いの火のブースに入ると、背面に、長崎が最後の被爆地となることを祈念する「誓いの火」の説明文と平和メッセージが掲げられている。

さらに上に登って、上がりきったところに…、「平和の母子像」は設置さている。

平和の母子像
「平和の母子像」の説明文

碑文には、設置目的である「平和への切なる願いを次世代へ伝えたい」との思いがにじみ出ている。

男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に一九四五年、沖縄での惨劇についで、八月六日広島、九日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
 ああ、あの閃光の下で幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、引き裂かれ息絶えた。
 あれから四十余年、いま第二の核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破滅の淵にある。すべてのものが生きるこの緑の大地を、地球を守ろう。
 それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再びあの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
  一九八七年八月一日
  長崎平和の母子像を建てる会

「平和の母子像」説明文より

この広場をそのまま進むと、道路の下をくぐった先に階段があり、それを登ると、原爆資料館の正面に出る。しかし、今回は、道路をくぐらず、左に登る歩道を上がった。

すると、そこには「反核・平和はぐくむ」像「あの夏の日」像がある。

「反核・平和はぐくむ」像と「あの夏の日」像
被爆50周年記念「平和の誓いを後世へ」碑

道路に出た。そして、横断歩道を渡ると、原爆資料館の正面玄関だ。

↓ 徒歩- 350 m 13 分

長崎原爆資料館

に入館したのは、16時58分。しかし、今回は時間がないので、常設展示室には入らず、館内をちょっとだけ歩く…。

観覧券売り場(常設展示室への入口)は素通り
いこいの広場(地下1階)には、折り鶴がいっぱい

スロープを上っていくと、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館側の地上に出る。出口から出たところにあるのが、「未来を生きる子ら」の像。

「未来を生きる子ら」の像入口

看板には、

絵画「悲しき別れー荼毘」に描かれた少女の母親と、平和を願う中高生の思いによって、悲惨で戦争のない自由で平和な世界を願いつくられたものです。

誘導看板の文言より

とある。何のことかは分からないまま、赤矢印の方向に進むと…。

「未来を生きる子ら」の像

作品の両側に説明板があった。

左側の解説板

 けが人や死体には驚かないようになっていた私が、忘れ得ない情景を見たのは8月19日のことででした。爆心地より約4㎞、滑石の打坂というところの畑の中で、2人の少女が積み上げられた木材の上に寝かされてありました。先ずその着物のあまりの美しさに私は我を忘れて見とれていました。顔を見るとどこにも傷の跡は見られず、薄化粧がしてあり、その顔の美しさにも息をのんで見ました。死んではじめて着せられた着物、死んではじめてされた化粧、周囲の心遣いが逆に何とも哀れでなりませんでした。何と悲しいことであろうかと思いました。私にとっては強烈に印象に残った情景であり、その悲しい物語りを残そうと、あの時とても美しい着物は表現できませんでしたが、29年後1枚の絵に描きました。
    松添 博
    松添博さんは、2014年(平成26年)4月13日、83歳で永眠されました。

左の解説板の日本語部分より

この絵に描かれた女の子のひとりは、福留美奈子さん。そのお母さんである志のさんが、戦後50年の春に「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい。」という思いを綴った手紙を、綾部中学校の生徒会宛てにしたためた。志のさんは京都府綾部市在住で、その思いを、ヒロシマに修学旅行に出掛ける中学生たちに託したのだ。この手紙が切っ掛けとなり、中高生、父母、教師、地域の人々が結束し、「長崎にふりそでの少女像をつくる会」が発足し、募金活動が開始。この運動に共感した全国の人々からの支援と、像制作に携わった人々の熱意と努力によって、この「未来を生きる子ら」の像が生み出されたのだ。

池に石を投げ込んだときのように、人々の思いは波紋の同心円のように広がっていく。

17時07分になった。段々とオレンジ色の光が強くなっていく…。先に進もう。

茶色い建物は、長崎市平和会館。1981年(昭和56年)7月に開館し、長崎市歴史民俗資料館、長崎市野口彌太郞美術館、そして、講演会やコンサート、スポーツイベントに利用可能な平和開館ホールが設置されている。

長崎市平和会館

長崎平和会館前にあるのが、原爆殉難教え子と教師の像

原爆殉難教え子と教師の像

1945年(昭和20年)8月9日11時02分に爆心地公園の上空500㍍地点で炸裂した原子爆弾は、一瞬にして長崎市の北部地域を焼け野原にし、14万人をこえる住民を殺傷した。その中には、この日、在宅していた国民学校児童5,800余人、報国隊として工場に勤務していた生徒1,900余人と教師100余名と共に即死、あるいは、放射線の影響により、次々に尊い命が奪われていった。

この惨劇が時の流れと共に忘れ去られることがないよう、県内外の教職員と有志の協力で建てられた像だ。亡き御霊の安らかなることと、二度と惨禍を繰り返さないことを祈念し、1982年(昭和57年)8月3日に建立された。

像の両隣には、「人の命が尊ばれますように」と「世界が平和でありますように」と書かれた石柱が立っている。

↓ 徒歩- 120 m 3 分

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

の入口に立ったのは、17時10分。ここから入場し、左に進む。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の入口

すると、池の下に入り込むようにつくられた階段がある。これが、平和祈念館の建物内部への入場口だ。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館は、原子爆弾の投下により亡くなられたすべての方々への追悼と平和祈念を行う場所として、建設された。池の下にある地下1階と2階の空間には、原爆死没者の氏名を記載した名簿が納められている追悼空間をはじめ、遺影・手記閲覧室や情報コーナーなどが設置されている。静かで厳かな雰囲気に包まれた異空間だ。

今回は時間の関係で、この階段を下ることはしなかった。

池のまわりを右回りに進み…

祈念館の建物入口
池の外周に沿って、歩道を右回りに歩く

そのまま、出口へ向かう。

さあ、南に向かって歩こう!

途中、被爆遺構のひとつである一本柱鳥居や被爆くすのき、それに西坂にある26聖人殉教の碑などに立ち寄りながら、大波止交差点辺りを目指すことにした。

長崎は坂の街。ある程度の幅のある車道であっても、住宅街のその先が、突然、階段になってしまう場合もある。当然、車は行き止まり。Uターンすらできず、仕方なしにバックで戻らなければならないこともある。

街中にある階段

この階段を下って直進すると、大通りに出る。そこを左折して、100㍍ほど進むと医学部通りと山王通りの交わる交差点に出る。そこを道なりに南へ250㍍ほど歩き、十八親和銀行の角を左に入ると、階段の上に右半分だけの鳥居が見える。

これが、いわゆる一本柱鳥居、山王神社二の鳥居だ。

一本柱鳥居

10年前までは、平和に関するセミナーの参加者を連れて何度も歩いた被爆遺構のひとつだ。

最後に訪れてからは、たぶん4~5年が経過しているだろう…。懐かしさを噛み締めながら、階段を上がる。

↓ 徒歩- 700 m 13 分 山王通り 経由

山王神社二の鳥居(長崎原爆遺跡)

に到着したのは、17時25分頃だった。
そして、一本柱鳥居の説明板に目を通す。

階段の登り口に設置されている説明板

 この鳥居は1924年(大正13年)10月に山王神社の二の鳥居として建てられたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂により、一方の柱をもぎ取られてしまった。ここは爆心地から南東へ約800mの距離にあったが、強烈な輻射熱線によって鳥居の上部が黒く焼かれ、また爆風によって一方の柱と上部の石材が破壊され、上部に残された笠木は風圧で反対方向にずれている。
 ただ一個の原子爆弾によって、当地区もまた、ことごとく灰じんと帰したが、この鳥居は強烈な爆風に耐え、あの日の惨禍を語り継ぐかのように、いまもなお一方の柱で立ち続けている。 しかしその後長い年月を経たため、安全性を考慮して柱の基礎部分や接合部分の補強工事を行った。
 長崎市はこの地で亡くなった亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。
   2001年(平成13年)3月
   長崎市 (原爆資料館)

階段登り口に設置された説明板
一本柱鳥居

そして、階段を上りきった先の左手に倒壊した側の柱や笠木・島木、貫なども参道の脇に保管されている。

一本柱鳥居の解説板と倒壊部分の展示

ここを先に進み、左折してすぐのところに山王神社がある。

↓ 徒歩- 57 m 1 分

そして、神社の入口には

山王神社の大クス

があるのだが…。おお~、あったあった…。時刻は17時29分。眼前に巨大なクスノキが姿を現した。

クスノキは今でこそ、空に向かって枝を広げ、たくさんの葉をつけているが、今から77年前のあの日、そう、1945年8月9日の11時02分には、強烈な熱線と爆風を受け、一瞬にして数万の尊い人命が奪われ、周辺の建造物が瓦礫と化した。このクスノキも例外ではなかった。枝や葉は焼け、もぎ取られ、大きな幹の一部だけ辛うじて残る形になった。誰もが焼け焦げた枯れ木になった思い込んだ。

山王神社入口に青々と茂っている被爆クスノキ

しかし、2年ほど経過すると、奇跡的に新芽が芽吹いて、徐々に樹勢を回復していった。その姿は近隣の住民に希望をもたらす復興のシンボルとなった

石段右手にある説明板

坂本町民 原子爆弾殉難の碑のご案内

町内会長をしていたので 翌日 町内の様子を見て回った。さんさんと 照りつける 真夏の太陽のもとに あちこちの 畑いっぱいにあるいは死にあるいは生死の堺をさまよいながら うめき 苦しむ多くの人々、達者な者は重症者の看護に一生懸命 立ち働いている。意識のあるものは全て泣いて救いを求めた。 780余人の総人口のうち200人ぐらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、達者な者も150人以上はいたのだが、それから10日ぐらい経った頃にはばたばたと死んでいき 完全に生き残ったものはわずか20人ぐらいに過ぎなかった。 町内175 世帯中家族そろって完全に生き残ったのは山王神社の船本氏の一家族だけである。 その日朝8時頃の空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて赤ん坊に至るまで完全に助かったというのである。

右の文は被爆当時、町内会長だった久保忠八さん(昭和47年没)の手記、「原爆記」(長崎原爆戦災誌に収録)から抜粋したものです。久保さんは 昭和20年8月9日、浦上に原爆が投下された当日仕事で県外に出張していてなお逃れた数少ない体験者です。 2日後の11日帰宅して目にしたのは一面の焼け野原。 ご自身も妻子5人をなくしました。 その惨状を知る生き証人でもありました。昭和27年被爆倒壊した山王神社の鳥居の測定を譲り受け町民手作りで碑を建立。囲碁 毎年8月9日に 慰霊祭を催して異性となられた多くの 地域住民に哀悼の誠を捧げ 世界の高級平和を記念しています まるなお日は 平成18年9月の台風で折れた クスノキの大枝が覆いかぶさり倒れましたが 住民の募金で復元。この地 山王からの祈りを 今日に継承しています。平成19年坂本町 山王 自治会

山王神社 ご案内

当神社は島原の乱後、 時の徳川幕府老中松平伊豆守信綱がこの地を通過せし際、近江国琵琶湖岸の坂本に風景地名ともに酷似しているとて河内の山王日枝の山王権現を招祭してはとの進言により長崎奉行・代官は寺町の真言宗延命寺の龍宣法印師に依頼し神社建立に着手した。当時は神仏混合の習慣により延命寺の末寺として「白厳山観音院円福寺」と称して運営された。 

以後幾度かの盛衰ありたるも地域の氏子の方々に守られて明治維新を迎え神仏分離令により元来の神社に戻り山王日吉神社と解消し浦上地方の郷社となる。 また明治元年 山里地区に皇太神宮が祀られたるも台風等の被害にて損壊し再建や以後の運営にも困難となり廃社を検討されるを知り氏子は山王社との合祭を願い出て許可となり、明治17年1月以後遷宮し、「県社浦上皇太神宮」と称したるも、地域では「 山王さん」として親しまれ、又浦上くんちとして大いに賑わってきた。 不幸にも 昭和20年の原爆の惨禍に直面し壊滅状態となりたるも、数年を得ずして苦境の中から復興の声が上がり、昭和24年より祭典を復活し、以後社殿境内等も次第に復活された。

 昭和63年(1988年)神社創建により350年の記念すべき年に幣殿も再建してほぼ旧来の姿に近く再建し得た。原爆時の遺物としては、現在は世界的にも有名 となった、参道の「石製片足鳥居」と境内入口にそびえる「楠の巨木」等が残り、原爆の悲惨さと平和の有り難さ等を無言のうちに語りかけてくれる。又楠木は戦後の数年で発芽、次第に繁盛し、現在の雄姿となり、地域の人々に戦後の復興の意欲と活力を与えてくれた。

山王神社石段右手の看板の本文より

石段を登ると…

山道の両側に被爆クスノキがある
向かって左は、高さ17.6m、幹回り6m58cm
右側は、高さ21.0m、幹回り 8m63cm
根元に置かれた「石」と、この石の由来についての説明板

説明板には以下のように記されている。

この石の由来について
この石は、 平成18年(2006年)山王神社被爆楠の木の2度目の治療の時に右側の木の空洞の中から取り出されたものです。
(爆風秒速220m、熱2000度<推定>)その証として無数の石が、右側の木の中から発見されました。
この木の3m上に 覗き窓があり この部分に空洞があって石が舞い上がり小石が穴の中に入ったものと考えられます。
常識では考えられないような大きな力が加わった原子爆弾の威力を物語っています。
神社に向かって左側の楠の木は 爆心地に近く、主幹は途中で折れています。その上、木の幹(内部)には無数の破片(瓦、金属、小石等)が突き刺さっていたため、治療の時その破片を取り除くのには困難を極めました。
            山王神社 宮司 松本勝之助
            山王神社 氏子総代会

「この石の由来について」の説明板
右側の木の空洞

被爆クスノキをじっくりと観察してから、拝殿には向かわず、入口の石段を下りて元の道へ。

一見するとどこの街でもありそうな住宅地にあるごく普通のアスファルト道路なのだが、さすがに坂の街「長崎」と言うこともあって、その車道が、突然階段になり人しかとおることができない道になることもある。

電車通りの渋滞を避けようと、軽い気持ちで住宅街に侵入したりすると、返って余計に時間をとることになってしまう場合がある。確かに丘から下っていく車道だったはずなのに、前方が突然階段になったりして、人かせいぜい自転車までしか通れない道になったりする。車にとっては袋小路で、元の道を戻るしか手がないのだ。

今日は歩きなので、問題ない。途中が階段になろうが、裏路地になろうがお構いなし。方向さえ間違わなければよい。気楽なもんだ。

山王神社の前を南に進み、山王保育園前の階段を下りたところの右手に小路を見つけたので、そこを進んだ。そして、山王通りから新浦上街道へと出るあたりになると、ゴーッ、ゴーッという大量の爆竹が同時に破裂しているときの音が遠くに聞こえるようになってきた。

茂里町電停付近を走る新型路面電車

新浦上街道の大通りでは、まだ時間が早いせいか、一艘の精霊船を曳く30人ほどの一団にしか遭遇しなかった。

このまま、通りの東側の歩道を南下した。

↓ 徒歩- 2.1 km  35 分 新浦上街道 経由

長崎駅前に差し掛かったとき、回り道になるが、坂道を上り

西坂から、再開発が進む長崎駅付近を眺めた

西坂公園(日本二十六聖人殉教地)

に立ち寄った。時刻は、18時07分頃だった。

二十六聖人殉教記念碑は、1597年(慶長元年)2月5日に行われた日本で最初のキリスト教殉教事件を記念して1962年に建てられたものだ。

この事件の詳細は、Webサイト「日本伝承大鑑」の日本二十六聖人殉教地に記されているが、処刑される道から逃れようとする者はおらず、どちらかと言えば、自ら志願して仲間に加わった者もいるほどだ。そして、恐怖に怯えたり、役人に敵対心などを一切持たず、神に対する信仰と讃美に満ち溢れて、喜んで殉教への道を突き進んだのだ。

過酷な状況ほど、人を強め、確信に満ちた行動をさせるのかもしれない。

日本二十六聖人殉教紀年碑の裏手にある建物は、日本二十六聖人記念館であり、その右奥に建っているカラフルで曲線的な石彫りの双塔を持つ建物は聖フィリッポ西坂教会である。

西坂公園から二十六聖人殉教紀年碑を眺める

再び坂道を下って新浦上街道に戻った。そして、長崎駅前の高架広場に向かう。

長崎駅前高架広場

に到着したのは、18時16分過ぎ。5分間ほど滞在しつつ、周囲の風景をカメラに収めた。

高架広場から工事中の長崎駅前広場を眺める
高架広場から見た南側の風景

さすがにこの時間にもなると、精霊船の鐘やドラの音、引き手の掛け声とゴーッという爆竹の破裂音が遠くから聞こえてくる。そして、街中が花火の白煙に包まれていく。

歩道橋を降り、大波止通りの東側歩道をさらに南下した。

↓ 徒歩- 500 m 11 分 大波止通り/国道202号 経由

元船有料駐車場

辺りに到着したのは、18時32分。雲行きが怪しくなったと感じたのもつかの間。

時折ザーッと強い雨が降ったり、また弱まったり…。ENEOSガソリンスタンドの屋根の下やコインパークのゲートにある屋根の下で雨宿り…。10分少々の足止めとなった。

↓ 徒歩- 500 m 9 分 大波止通り/国道202号 経由

さらに南下し、

大波止停留場

に到着したのは、18時54分頃。雨は断続的に降り続いていたのだが、精霊流し見学の一等地であるこの付近30分間ほど、次々に通り過ぎる精霊船を目をやった。

↓ 徒歩- 400 m 31 分

そして、今度は東に向けて歩き

県庁坂通交差点

で今回の精霊流し見学をここまでとし、折り返すことにした。19時51分頃だった。

↓ 徒歩- 1.1 km  18 分 大波止通り/国道202号 経由

結構な距離を歩いたので、帰りは、どこからか、市電に乗って駐車場まで戻るつもりだった。

大波止通りからは西側の歩道を北上した。

そして、

長崎駅前高架広場

には、20時11分頃に辿り着いた。

↓ 徒歩- 3.1 km  39 分 新浦上街道 経由

さらに新浦上街道でも西側の歩道を歩き続けた。前後には、住民なのか旅行者なのかは分からなかったが、同じように市電やバスにも乗らず徒歩で北上する人達が何人も居た。

坂の町、長崎の住民は、歩くことが好きなようだ。

結果的には、私も

長崎市営松山町駐車場

まで、歩きで戻ってきた。20時52分だった。

長崎市営松山駐車場の営業時間は

↓ 車- 41.8 km 1 時間 2 分 国道251号 経由

ドラッグストアモリ 高来店

22:04~22:35

↓ 車- 22.3 km 26 分 国道207号 経由

道の駅 太良

23:01~3:42

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