ふらり旅

小国・阿蘇・天草周遊[6日目/最終日]富岡城跡・アダム荒川殉教公園と天草キリシタン館

いよいよ今回の旅の最終日となった。今晩までに福岡県入りしなくてはならない。ああ~、こういった制約を意識するとやや気分が沈む。いつものことだが…、どうすることもできない。

今回は、動きに切れがなかったせいで、どこも満足に回り切れていない。せめてあと一日でもあれば…、と思うのだ。でも、それは無い物ねだり…。

そもそも3日目の動きが鈍すぎた。あそこでシャキシャキと進路を決めて、天草まで一気に移動できていたら、一日までとは行かなくても、もうちょっと時間を生み出せたのだ。今更そんなことをいってもどうすることもできないのだが…。

そうなってしまった主な原因は、その前夜の酒のせい。S&Aシェアハウスが居心地が良すぎて…、久住ワイナリーのワインが美味すぎて…、つい調子に乗ってしまったのだ。会話が弾んでの飲み過ぎだ。

ただ…、果たしてこれは反省すべき事柄なのか?! 楽しい酒なら仕方がないじゃないか!

反省すべきは、前日に深酒しても、翌日にそのツケを回さないほどの体力と精神力を身に付けていないことだ。年を言い訳にするのももってのほか!

一から鍛え直すしか道は無い!

2022年7月30日(土)の行動履歴

太宰府市、熊本県

<車移動> 215 km 5時間52分 <徒歩移動> 2.2 km 1時間00分
十三仏公園駐車場 9:28
↓ 車- 20.9 km 35 分 国道389号 経由
富岡城 二の丸駐車場 10:04~10:06
↓ 徒歩- 450 m 20 分
富岡城跡 10:26~10:53
↓ 徒歩- 350 m 12 分
富岡稲荷神社 11:05~11:08
↓ 徒歩- 750 m 14 分
アダム荒川殉教公園 11:22~11:28
↓ 徒歩- 650 m 14 分
富岡城 二の丸駐車場 11:42~11:44
↓ 車- 21.8 km 36 分 オレンジロード 経由
ENEOS Dr. Drive 本渡SS / (株)エムロード 12:20~12:34
↓ 車- 2.3 km 6 分 県道44号 経由
天草市立天草キリシタン館 12:40~15:37
↓ 車- 350 m 1 分
明徳寺 15:39~15:49
↓ 車 - 1.0 km 5 分 県道44号 経由
祇園橋 15:54~15:57
↓ 車- 148 km 3 時間 50 分 国道266号 経由
道の駅 みやま 19:47~19:57
↓ 車- 20.6 km 39 分 国道209号 経由
実家 20:36

十三仏公園駐車場

6時58分頃、起床。ぐっすりと眠ることができた。トレーラーのリアウインドウ越しに、白鶴浜が見える。

広い駐車場に駐まっているのは、私の車だけだ。静かで快適。ここは、すばらしい車中泊スポットだと改めて実感する。時間があれば、もっと滞在していたに違いない。

着替えて、外に出る。そして、公衆トイレに向かう。

ここ十三仏公園は、昆虫の宝庫だ。ここかしこにトンボが飛び回っている。遠くからはアブラゼミ、クマゼミなどの鳴き声がひっきりなしに聞こえている。

トイレの中にも、沢ガニ大の灰色の小ガニが歩いていたりするのだ。それほどに、自然が身近にある。

朝食はカレーライス  ご飯はチンして、カレーは湯煎
駐車場の南端

今日もすばらしい天気になった。

絶好の海水浴日和だ。なのに、白鶴浜海水浴場に訪れている人は、土曜日にもかかわらず疏ら…。ここまで来なくても、途中に美しい海岸が多数あるということかもしれないが、こういったハイレベルの海水浴場でも人が疏らというのは、他の地域ではなかなかないことではないだろうか…。

これもまた、白鶴浜海水浴場の大きな魅力のひとつだ。

駐車場から白鶴浜海水浴場を見る

こんな海水浴日和に時間が確保できなくて泳げないのはとても残念だが、今日一日という残り僅かな時間を有効に使って、まだ巡っていない場所を訪問したい。

ということで、今日は、富岡城周辺を廻ることにする。

出発準備を整える。手順を細かく書くと…。

まずは、冷風扇をベッド下に収納し、ガスコンロの元栓を閉める。トレーラーの冷蔵庫の切換スイッチを外部電源から直流12㌾に切り替える。窓をすべて閉じ、サンシェードを閉める。特に天窓やトイレの換気口の閉め忘れがないよう注意する。そして、外に出て、ヘッド車であるアウトランダーのパワースイッチをオフにして、トレーラーへの給電を止める。次に電源ケーブルをトレーラーから抜き、コードを束ねてから、ヘッド車のバゲッジルームに収納する。トレーラーに移動していた荷物をヘッド車に戻す。電動ドライバーを使って、四隅のアウトリガーを上げる。ヘッド車にヒッチポールマウントを取り付け、トレーラーのヒッチメンバカプラーロックを外す。そして、トレーラーをヘッド車に繋ぎ、アシストホイールを巻き上げて、支柱ごと引き上げる。セイフティワイヤーと電装プラグをヒッチメンバーとソケットにそれぞれ繋ぐ。ドア・窓が閉まっているかの確認を含めて、トレーラーの周囲と連結部を点検する。最後に、ドライブレコーダーにMicroSDカードをセットする。

ドライブレコーダーはアウトランダーのパワースイッチをオンにしている間中、普通通りに動作して、停車時の何もない映像を記録し、上書きしていくので、その前の貴重な走行中のデータが消去されてしまう。それを防止するために、トレーラーへの給電中には、MicroSDカードは外しておくのだ。そして、外しているこの間を利用して、走行時の映像データをハードディスクにバックアップしておいたりする。そのデータはブログ書きに何かと役立ったりするのだ。

いつもはサラッと流している出発準備の手順だが、結構、細々あって気を遣う。トレーラーはヘッド車とは違って、警告灯や警告音がほとんどない。窓を閉め忘れても、アウトリガーを上げ忘れても、セイフティワイヤーを付け忘れても、一切、ドライバーへの通知や警告は行われない。忘れていたでは済まされない。だからこそ、慎重に確認する必要がある。

長々と書いてしまったが、ようやく出発準備が整った。

では、最終日を満喫しよう。9時28分、トレーラーを引いて出発だ。

↓ 車- 20.9 km 35 分 国道389号 経由

富岡城 二の丸駐車場

に到着したのは、10時04分。かつて富岡城は、砂州によって陸続きになった島、つまり陸繋島Wikipediaにあった。そのため三方が海に囲まれ、一方にある砂州のみが街に通じている天然の要塞だったことは、築城について全くの素人である私でさえ、察しが付く。

ここに至る走行ルートは、Googleマップによって指し示されたものだったのだが、こんな裏道のような細い道しかないのか、それともどこかで地図を見誤ったのか?…と思うほどのものだった。どうやら現代でもその城の堅固さは失われていないようだ。

二の丸駐車場

富岡城公園案内図の前に臨時の注意事項が立てられていた。内容は

場内は散策できるが、ビジターセンターが施設改修工事に伴い、7月18日~9月19日まで休館中。その代わりに、苓北町歴史資料館は毎日開館する。
これより先の駐車場とトイレは利用できないので、ここで済ませてから散策してほしい。

の2点だ。

富岡城跡への上り坂と富岡城公園案内図
富岡城公園案内図を拡大すると…
坂道途中から駐車場を振り返る

↓ 徒歩- 450 m 20 分

富岡城跡

10:26~10:53

林を縫うように蛇行した坂道が続く
石垣の下を左に回り込む
二の丸西隅櫓
出丸から二の丸東隅櫓と塀との間の入口を臨む

東隅櫓の横の階段を上がって、二の丸に入る。

来客者はポツンポツンといる程度。改装工事中だからなのか、それともいつもこんな調子なのか…。

二の丸から北西方向の眺め
二の丸から南東方向の眺め
武士の銅像が4体
鈴木 重成と鈴木 正三 しょうさん の像
その下にある説明板
富岡城の城歴の解説版
勝 海舟 と 頼 山陽らい さんようの像
その下の解説版
4人の武士の像
富岡城の波乱に満ちた歴史が綴られている
二の丸からの眺め 富岡の街方向、南向き
南東方向
東向き
苓北町歴史資料館の前を通って、階段を上ると下櫓へ
下櫓の手前にある富岡城跡案内図
ビジターセンター

繰り返しになるが富岡ビジターセンターは、改装工事のために入館できなかった。でも、近い将来、天草には再訪するつもり。リニューアルオープンした施設に期待しよう。

それまでは、2012年に作成されたGoogleマップストリートビューで我慢、我慢…。

下櫓の脇から下界にある街を眺める
ビジターセンターの案内板
上櫓の右にあるビジターセンターの門から出て、来た道を下る
下の裏から下櫓と掲揚台をみる
東隅櫓の横から降りて出丸に降り、その南西側を歩くと…
こぢんまりした稲荷神社がある
社の後が御神木?

下櫓の脇から降りる階段と一緒になった。そして、さらに下に通じる道があったので歩いてみる。

飛び出た石垣のところから下櫓方向を望む
階段を下へ下へと降りていく
道が細くなる。さらに降りていくと…

↓ 徒歩- 350 m 12 分

富岡稲荷神社

があった。11時05分着。

富岡稲荷神社の拝殿
拝殿の中。この奥に神殿がある。

階段はさらに下へと続いていた。11時08分、さあ、どうする。

鳥居が幾つも連なっている。この先はどうなっているのだろう。

降りてみるか…。

階段の折始めのところから拝殿を振り返る
階段を降りていくと、なだらかになった。もう一度振り返ってみる
さらに階段を降りていくと、車道に出た

道向かいにも稲荷神社の鳥居がある。

道向かいの鳥居

それの階段を上っていくと、ただの高台になっていた。石灯籠はあるが、社の類いはない。そして、その向こうは、砂州の北側の海が広がっている。

階段の上の原っぱ

こんな風になっていたわけか…。じゃあ戻ろう。ん?降りてきた鳥居の左には車道がある。同じ道を帰るのはつまらないので、車道を通って帰ろう。

車道を上がっていく

ところが、後から分かったことだが、この選択は誤りだった。城跡の左側からぐるっと回って、ビジターセンターの西北西側にある身障者用の駐車場に行く道だったのだ。歩道よりもだいぶ遠回りになった。林の中を通っているので、見晴らしも全くない。

しかし、結局はその道をひたすら進み、身障者用駐車場には上がらずにそのまま進むと、城の北西側に出た。そして、その先を左に降りていくと二の丸駐車場に辿り着く。

私が身障者駐車場の方から上がってきて、城跡に上がらず、二の丸駐車場の方向に降りようとしている様子を見て、地元の人が遠くから声を掛けてきた。

「どちらから上がってこられましたか?そっちに行くと、城跡には行けませんよ!」
「ああ、分かっています。ありがとうございます。城跡には先ほど行きました。車を二の丸駐車場に駐めてますので…。」

こういったところには、親切な人が多い。

↓ 徒歩- 750 m 14 分

駐車場の奥に

アダム荒川殉教公園

があるらしい。だいぶ歩いたが、ことは序でだ。行ってみよう。

駐車場の奥にある食堂「ぶどうの木」の向こう側を回り込むように道が続いていた。食堂の裏に回り込むと、下に芝生の広場があり、そこがアダム荒川殉教公園になっていた。

11時22分に到着。

食堂裏の路上から殉教公園を眺める

道なりに降りていくと、3台分の駐車スペースがある。

アダム荒川の記念広場

この説明板を読むと、アダム荒川は、1552年前後の生まれで、キリシタン大名有馬晴信の領地であった島原半島の荒川(現、吉川)出身だそうだ。荒川とは苗字ではなく出身地名なのだ。

アダム荒川は若い頃、主君から死刑宣告を受けたが、イエズス会のモーラ神父の取りなしで、赦され、その後の生涯を教会に捧げた。1590年(約38歳)頃、志岐の教会に派遣され、神父の助手である看坊として教会を守った。1614年(約62歳)徳川幕府の外国人宣教師追放令に基づき、領主寺澤志摩守は富岡城番代川村四郎左衛門に命じて、志岐の教会にいたガルシア・ガルセス神父を長崎に移送させた。その際、神父はアダム荒川に教会と信者の世話を依頼。
番代の川村は、領主の領内キリシタンの全員棄教の厳命が進まないのはアダム荒川の活動にあると判断。アダム荒川に棄教を勧めたが、幾つもの迫害に対しても信仰を守ったので、1614年6月5日に処刑された。

アダム荒川の処刑を描いた絵

時は流れて、2007年(平成19年、生誕455年)6月1日にローマ法王ベネディクト16世が、迫害によって処刑された日本人殉教者188人を「福者」に列したことから、アダム荒川は天草で唯一の福者となった。

それにしても、若い頃に受けた処刑宣告はいったい何の罪だったのだろうか…。

カトリック中央協議会の記事「天草の殉教者アダム荒川」によると、「主君アンドレア掃部かもんにより処刑を命じられた。」とある。キリシタンの主君が命じた処刑の罪名はいったい何? 疑問が深まった。

公園になれべられた3つの石碑

どんなに過酷な迫害にも屈しない、強烈な信仰に敬服する。

強い信仰を目の当たりにし、元気づけられたような気がした。11時28分、来た道を戻った。

↓ 徒歩- 650 m 14 分

その道すがら、行き掛けには気付かなかった様々な珍しい木が植わっていた。

様々な樹木。ひとつだけ「カクレミノ」と記されているが、他は説明無し。

富岡城 二の丸駐車場

二の丸駐車場

駐車場に戻ってきたのは、11時42分。今度訪れるときには、資料館とビジターセンターの両方に立ち寄り、資料にじっくりと目を通したいものだ。

↓ 車- 21.8 km 36 分 オレンジロード 経由

天草キリシタン館に向かうルートから余り逸脱しない場所にあるセルフスタンドを探して

ENEOS Dr. Drive 本渡SS / (株)エムロード

に向かった。到着したのは、12時20分

車を降りて、価格表を見ると、一般価格172円、エネキー利用で-2円の170円/㍑。ならば、20㍑だけ給油しておこう。

12時34分に出発。

↓ 車- 2.3 km 6 分 県道44号 経由

天草市立天草キリシタン館

前の駐車場に到着したのは、12時40分。この道は一方通行になっているので、係員の誘導で先の方の出口付近に駐めさせてもらった。

トレーラーは道に並行に駐車させてもらった

ここから階段を上がったところが天草キリシタン館の正面入口だ。階段の隣に、エスカレーターも設置されている。

北原白秋詩碑
天草キリシタン館入口の説明書き

開館時間は、8時30分から17時00分(入館は16時30分)まで。
休館日は、12月30日~1月1日と毎週火曜日(祝日の場合は翌平日)
観覧料は、大人300円、高校生200円、小中学生150円、小学生未満は無料、20人以上は団体料金あり

館内は撮影禁止だ。
まず映像を見て、概略を掴む。その上で、展示品と説明パネルにじっくりと目を通す。

今更だが、ここは、天草を巡る最初の時点で訪れるべき場所だったのかもしれない。

天草キリシタン館を出て、裏手に回ると、木山弾正社がある。

木山弾正社

弾正社由来
 頃は 南北朝 新田左京太夫備後守 貞昌 正平十二年 征西大将軍 懐良親王に従い九州に下向 菊池氏と共に 少貳 大友と戦い平定後 孫 左近大夫惟政 阿蘇家客将に迎えられ 肥後益城に木山郷を造り 木山姓に改名 世々城主たり天文十三年木山城主 木山弾正惟久 島津に攻められ落城 弾正は天草種元の外父の故を以て 本戸城客将に迎えられた 天正十七年 天草合戦に及び本戸城より弾正手勢五百を引き連れ志岐麟仙加藤清正軍を佛木坂に迎え 清正と一騎打して戦死 長子傅九郎も此時討死 一方 本戸城主天草種元 留守を預かる弾正の妻 お京の方 加藤 小西 有馬 大村の連合軍の総攻撃を受け 種元以下自刃 弾正の妻お京の方 娘子軍三十余を引き連れ斬り死に哀れを止めて本戸城の落城となれり 云々
浜崎里民十二月御正忌義勇を慕い毎年敬仰祭を行う
        浜崎区奉賛会 十四代 木山 惟彦  
昭和六十三年十二月吉日 四百年祭 敬記

鳥居の右側に設置された説明板より
第12代木山重吉翁の銅像と説明板

こちらは明治期に天草で活躍した政治家だそうだ。

天草キリシタン館は、本戸城跡に建てられている。

天草キリシタン館の屋上は、展望台になっている。

本渡の街並みと背後にある海や上島を見渡せる。

その後は、天草キリシタン館の南側の階段を降りて道向かいにあるキリストの平和像へ。

キリストの平和像とアルメイダ神父の記念碑
そして、ここにもアダム荒川の石碑が…
キリストの平和像の前に置かれた「由来」

キリストの平和像の前に置かれた由来には、ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ神父の生涯をが記されている。

平和像の向かいにあるキリシタン墓地

いつの間にか、かなりの時間を費やしていた。クルマを出したのは、15時37分。

↓ 車- 350 m 1 分

車を出発させてひと息つく間もなく、立派な山門の前を通った。歴史を感じさせる重厚な面持ちの楼門だ。見たかったので、停める場所を探すべくスピードを落とした。するとその先に路肩の広い場所があったので、クルマを停めた。

クルマを降りて、戻ってみると、そこは

明徳寺みょうとくじ

の山門だった。15時39分。

明徳時山門と本堂

天草市指定文化財
明徳時山門(双聯そうれん
  曹洞宗 指定年月日 昭和33年5月1日
  管理者 明徳寺
 向陽山明徳寺は、正保二年(一六四五)、天草初代代官鈴木重成によって建立され、開山は中華珪法である。楼門は、享保二年(一七一七)、三世丹州寿鶴の時に建てられ、文化五年(一八〇八)十世大容素海の時に再建された。天草にある楼門の中で、最も優れたものである。
 門扉の両横には双聯が設けられ、
   祖門英師行清規流通佛陀之正法そもんのえいし しんぎをおこない ぶつだのしょうぼうをるつうし
   将家賢臣革弊政芟除耶蘇之邪宗しょうけのけんしん へいせいをあらため やそのじゃしゅうをせんじょす
との銘が残る。キリスト教に替わって、仏教で天草を再建しようとした先人を称えており、祖門英師は中華珪法、将家賢臣は鈴木重成のことを指すと考えられている。天草島原の乱のために混乱した天草を、仏教によって再興しようとする明確双聯からは、な意志がうかがえ、歴史資料として他に類を見ない貴重な文化遺産である。
   平成26年3月 天草市教育委員会

山門右に置かれた説明板より
明徳時山門と鐘楼
本堂

時間とクルマが気になったので、これ以上は、中に入らず、道路に戻った。そして、道をキリシタン館の方に進むと…。

稲荷神社があった
拝殿
ここは正一位活尾稲荷大明神。由来を書いた説明板がある

由来には、“今を遡ること約430年前 加藤清正の重臣松下飛騨守綱竟は隈府玉祥寺宗山禅師より稲荷大明神の御神体を授けられそれを守護神とした”とあるが、“今”とは、一体いつのことだろうか?
それから、“隈府玉祥寺”とは、菊池市にあるお寺、玉祥寺だとわかったが、“加藤清正の重臣松下飛騨守綱竟”も、隈府玉祥寺“宗山禅師”も、ネット上での検索に引っ掛からず、人物像を特定することができなかった。検索の仕方が悪かったのだろうか…。

多少気になるが…、まあいいか。そろそろ戻ろう。

明徳寺の前を通るときに双聯を撮った。

双聯と金剛力士像(右側)
双聯と金剛力士像(左側)
もう一枚…

クルマに乗り込み、パワースイッチを入れたのは、15時49分。

後で分かったことだが、向陽山明徳寺には、下に駐車場があって、そこから石段で登ってくる形になっていた。その石段には、司馬遼太郎の「街道を行く」で、“石段に十字架が刻まれていることに気づき、切支丹禁制時代の凄みを感じる”と記した、十字が刻まれているところがあったらしい。また、境内にはマリア観音を連想させる子安観音像も置かれていたのだ、

ふらりと立ち寄っただけだったので、見どころを2ヶ所も逃してしまっていた。次回の課題として撮っておこう。

↓ 車 - 1.0 km 5 分 県道44号 経由

あと、

祇園橋

だけ、見て帰ることにしていた。15時54分~15時57分。

ここも、駐車場が課題だ。橋のたもとまで行ってみたが、駐車場が見当たらない。たまたま、他にクルマがいなかったので、ちょっとだけ路駐して、写真を収めた。

↓ 車- 148 km 3 時間 50 分 国道266号 経由

いつの間にか、16時になっていた。今回のふらり旅は事実上、ここまでだ。後はひたすら北上して、久留米の実家を目指して走るのみ。

道の駅 みやま

に到着したのは、19時47分。10分間だけトイレ休憩して、再出発。

↓ 車- 20.6 km 39 分 国道209号 経由

実家

には、20時36分に無事到着した。

繰り返しになるが、今回の旅は、天草での滞在期間が短すぎた。それに、後になって、行ってみたい場所が増えたし、見逃したスポットも幾つもある。

まあ、そのお陰で、また行きたいと思うのだろう。1回で満喫できるほど、魅力は浅くないのだ。

次回の訪問に備えて、メモを残しておかないと…。

まずは、天草キリシタン館に立ち寄ったら、天草のキリシタン関連資料館である天草キリシタン館・天草コレジヨ館天草ロザリオ館﨑津資料館みなと屋をお得に巡ることができる「周遊観覧券」を購入する。そして、有効期間7日間内に巡ってしまおう。

向陽山明徳寺を開山した中華圭法禅師は山口県瑠璃光寺15代の禅僧中華珪法禅師。2020年12月に訪ねた瑠璃光寺とここで繋がるとは…。

その中華珪法禅師が1618年(慶安元年)に植えたとされる紅梅「お手植えの梅」が境内にあるそうだ。ということは、樹齢404年だ。参道の石段にある十字の刻みとともに、拝見したいものだ。

そして、中華珪法禅師が命名したとされる天草下島最高峰の山“天竺”にも登ってみようかなぁ。詳細データはしまやま百選76にある。それから“歩く”という意味では、九州オルレが天草・維和島コースと天草・松島コースと天草・苓北コースの3種類、設定されている。これも組み込んでみたい。

今から、次の天草行きが楽しみになってきた。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


error: Content is protected !!