ぐるっと長旅

北九州の紅葉・夜景とSL「新山口駅開業120周年記念」号[4日目]SL撮影本番

弥栄神社の大欅(天然記念物) 

また、ひとりで歩き出す。県道13号萩津和野線の橋で、津和野川を反対側に渡り、左折すると、ここに着く。

15時54分。鳥居の向こうに大欅が祀られている。

弥栄神社の鳥居 その向こうに大欅(けやき)
大欅(けやき)

立て札には「津和野町指定文化財(天然記念物)弥栄神社の大欅(けやき)昭和四十八年十月二十五日指定 樹齢約六〇〇年以上と推定されているこの欅は、正長元年(一四二八年)、吉見氏四代弘信が三本松城下の守護神として弥栄神社を勧請した際に、植えられたと言われています。」とある。

そのまま抜けて、振り返ると拝殿がある。

拝殿正面の鳥居
弥栄神社についての解説

この説明書きによると、「弥栄神社は、元々祇園社として平安時代貞観年間(870年頃)に創建された歴史ある神社で、正長元年(1428年)に太皷谷(滝の本)遷座し、その十年後に祇園社は現在地に移した。享禄元年(1528年)に京都八坂神社から再勧請。慶応三年(1867年)に社号を滝の本祇園社から弥栄神社に改められ現在に至る。」とある。

しかし、ということは、先ほどの大欅の説明と整合性を保つためには、大欅は初め、滝の本にあった祇園社に1428年に植えられ、その10年後、祇園社がここに遷座した際、欅もここに移して植え直したということだろうか…。その辺が分からない…。

ともかく昭和48年(1978年)に設置された立て札に推定樹齢は600年以上とあるので、この楠が芽を出したのは1378年以前。ということは、1428年に植えられた欅の木は既に樹齢50年以上の木だったことになるが、そんなことはあるのだろうか…。説明板の説明か、私の解釈のいずれかに間違いがある。

↓ 徒歩- 450 m 9 分

太皷谷稲成神社

16時00分。さらに先に進むと、今度は赤い鳥居が、山の上の方にずっと続いているのが見える。ほら、早くこっちに来てみなさい…と私を急かす心の声が聞こえる。

まず通りから1つ目の鳥居をくぐる 

殿町通りと高岡通り交差点に太皷谷稲成神社一ノ鳥居があるので、この鳥居が二ノ鳥居なのかも…。

2つ目の鳥居の左にお土産屋なのかな? 今日はお休みのよう
4つめから鳥居の回廊となる

京都の伏見稲荷神社を彷彿させる赤い鳥居が続く階段。

上へ上へと登っていく
鳥居の間から上を覗くと、さらに上へと続いている。
1つ目の鳥居と、SLの写真を撮った第一津和野橋梁が見える
第一津和野橋梁を望遠で見るとこんな感じ
ここが表参道の中間点 下から5分で、上まで5分の地点
さらに上に続く赤い鳥居
上に見えるのが元宮
手水舎と神門
神門の脇を抜けると 正面左手が新殿
神門を抜けて、右隣に元宮がある
新殿の全体
新殿の内部
新殿の左側に、裏奉拝所への通路がある
神殿裏奉拝所
駐車場(1階)
津和野の南側の地域 正面が町立津和野小学校
元宮
火焚神事の火焚串
元宮の右側から奥へ行くと…
命婦社の鳥居と賽銭箱
命婦社
表参道の鳥居群

ぐるっとひとまわりできた。

Webサイトのトップページを見ると、

太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。

以来、歴代の藩主の崇敬が篤く、明治の版籍奉還に至るまで、藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されておりましたが、廃藩後は広く一般庶民も参拝できるようになりました。

大正13年には、北白川宮富子大妃殿下が御参拝なされ、宝物の寄進があり、宝物殿を設置し、次いで養老文庫を設けました。

昭和30年代には参拝者の激増に伴い、昭和38年9月に新社殿建設の奉賛会を結成し、昭和42年に境内地西側の山を切り開き社殿地を造成し、昭和44年12月に、新社殿が竣工、御遷宮を斎行しました。

古い社殿は、「元宮」として維持し、御分霊が奉斎してあります。

現在では日本五大稲荷の一社に数えられ、その御神徳は霊験と共に全国に崇敬景仰されております。

観望成就の神様・日本五大稲荷「太皷谷稲成神社」Webサイトトップページ

と記載されている。やはり、伏見稲荷神社との関わりが深かったのだ。

16時28分、登ってきた表参道を下りはじめた。

↓ 徒歩- 850 m 22 分

表参道を下り、殿町通りを東へ。一ノ鳥居を抜けると交差点の向こうに鷺舞モニュメント広場がある。そこから藩校養老館の裏側に抜ける門になっている建物が公衆トイレになっている。

それを借りて、中庭に出たとき、バスツアーだろう、2~30人の団体とすれ違った。この一団を率いているガイドは、必要な人にここでのトイレ利用を促していたが、先に利用できていて運が良かった。

ガイドに引き連れられると、タイムリーに解説を聞けるメリットがある。しれっと、一団に混じって聞こうかとも思ったが、先を急ぎたかったので、養老館の正門から通りに出た。

キャンピングカーの類いを使ったくるま旅とバスツアーは両極端である。バスツアーはコース決めから移動手段の手配、食事や宿泊場所に至るまで、ほとんどすべてが旅行業者によって決められていて、言われるがままにガイドの誘導にしたがっていけば、基本的に完結する。気楽にいいとこ取りの旅することができる。これがバスツアーのメリットだ。

一方、キャンピングカーだと、何一つ決まっていない。コース決め、食事も宿泊地の選定も移動もすべて自分でやらなければならない。

特にひとりのふらり旅だと、その日の行動予定すら必要ない。もちろん、大まかには考えていたとしても、そのときの都合で、どうにでも変更できるし、どう変更しても構わない。これが、キャンピングカーの類いでの最大のメリットだろう。宿泊場所の予約が必要ないので、大胆な予定変更も可能だ。

でも、自由度が高い分、選択肢が増えて、決断に戸惑うこともある。なんにしろ一長一短はある…。何を重要視するかで手段は変わってくる…。

殿町通りの石畳
大岡家老門 この奥は津和野町教育委員会になっている
水路にはこいが泳いでいる

カトリック津和野教会

 16時50分に教会前まで来たのだが、建物の周りには足場が組まれ、建物はすっぽりと隠されていて、建物の外観を見ることができない。これは教会聖堂保存修理工事によるもので、来年11月末までこの状態が続くようだ。

聖堂保存修理工事中の津和野カトリック教会

「あ~、見たかったなぁ、外観も礼拝堂も…」
心の中でブツブツ言いながら、門の前をうろうろしていると、こどもを連れたお父さんが隣の門から出てきた。附属のカトリック幼稚園にこどもを迎えに来て帰るところなのだろう。教会の関係者かもしれない…とっさに、声を掛けた。
「今、教会は工事中なんですね。全く入れないのでしょうか?」
「いや~~、どうでしょうか…。中で聞かれたらいいと思いますが…。たぶんどなたかおられると思いますよ。」
そりゃそうだ。入れない雰囲気だったので、躊躇っていたが、入っていって誰かに聞いてみればいいんだ。ちなみにこのお父さんは単なる保護者で教会関係者ではないようだ。
「そうですね。じゃあ、そうしてみます。ありがとうございました。」

そういって、通路を中に進んだ。すると、乙女峠展示室で、シスターが何かの作業をされていたのだが、事情を話すと、快く礼拝堂の入口の鍵を開けて、中を見学せてくださった。

「この聖堂は1931年に建てられました。この聖堂の窓には一枚一枚、手作りのステンドグラスがはめこまれているんです。それらは当時のままです。手作りだからよく見ると少しゆがんでいたり、気泡が入ったりしています。」
「そうですねぇ~、写真を撮ってもいいでしょうか?」
「どうぞ、撮ってください。」
「ありがとうございます。」
と言って、シャッターを押し始めた。時刻は17時近くになっているし、建物の周りには目隠しが張ってあるので、礼拝堂の中は、照明を点けていただいていたにも関わらず、かなり暗かった。スローシャッターにせざるを得ず、手ぶれが心配された。

シスターは話を続けられた。
「この建物は築90年近くなるんですけど、ある方が言われていました。『戦争がない、平和とはこういうことです。古き良きものがいつまでも残る。』と。この津和野の街は先の戦争のとき、空襲がなく、焼けずに残りました。」
確かにそうかもしれない。人間同士の争いがあると、いろんなものが破壊され、失われる。私もできることなら、安土城や坂本城をこの目で見てみたいと何度も思ったものだ。
「確かにそうですね。それにしても、確かに空襲は避けられたかもしれませんが、日本のような高温多湿の気候の場所で、よく90年も保ちましたね。普段の手入れが良かったのでしょう。」
写真を撮ることに集中していたとはいえ、せっかくシスターが平和の尊さについて話をされていたのに、私のコメントはどこかピントの外れたトンチンカンな返答になっていたかもしれない。

頭の中にいろんな思いがよぎる…。乙女峠の話にもあるように、この津和野と長崎市の浦上地区は隠れキリシタンで深い繋がりがある。

その浦上天主堂はアメリカの原爆投下で破壊され、大部分が瓦礫と化した。

それを戦後、そのまま保存して、平和の尊さを訴える被爆遺構とする動きが市民の中から湧き上がり、運動として盛り上がっていった。当時の市長もその方向で動いていた。しかしその後、市長が米国に招かれ、その後帰国したときには180度方針を変更し、浦上天主堂はほんの一部を移設展示することして、大部分は解体撤去されることに決めてしまった。

アメリカ政府がこの市長に対して、どのような説得をしたのかは不明だが、その後、いくら市民運動で保存を要求しても頑として受け付けられず、解体されてしまう。

このように、戦争が終わった後であっても、権力者の民意を無視した行動によって、シンボリックな建物が破壊されることがある。

権力者の民意無視も平和でない状態だと定義すれば、「建物が末永くそこにあるのは平和だからこそ」というシスターの話はごもっともだし、納得できる。

聖堂は板張の上に畳敷き
左側の壁とステンドグラス
右側の壁とステンドグラス

17時になった。シスターにお礼を言い、礼拝堂を後にした。できることなら今度は明るいときに訪れたい。

↓ 徒歩- 300 m 5 分

津和野駅前駐車場に向けて通りを歩いていると、造り酒屋があった。

店構えの雰囲気が素晴らしかったので、写真を撮ろうとしていたら、店員さん達が店から出てきて、酒樽などの店の前に飾ってある小物を片付け始めた。
「あらら~~、ちょっと待って~~。」
と言いたかったところなのだが、17時を過ぎている。閉店を急いでいたのだろう、テキパキと片付けられてしまった。

私の存在には気付いていなかったようだ。諦めて、シャッターを押すのをやめた…。

でも、いつも後になって後悔する。その様子を撮っておけば良かったのに…。旅の記念になるし、おもしろい絵になるはずだ。反省、反省…。

ここは、「初陣」が主要銘柄の古橋酒造株式会社。店内には、照明を落とした薄暗い店内にスポットライトを浴びたオシャレなボトルが並べられていた。

店内に足を踏み入れたときには、いらっしゃいませの言葉が数名の店員から聞こえたが、その後は、シーンと静まりかえって、時間だけが過ぎ去っていく…。先ほど、店員さん達が店先で慌ただしく閉店準備をしていた姿が頭をよぎる…。もしかしたら早く閉めたいのかなと、気が気でなくなって、店を出てしまった。

華泉酒造合資会社 

17時05分。先ほどの店から50㍍も離れていないところに、また造り酒屋があった。今度は、まず通りから一枚シャッターを切って、入店した。

創業290年の華泉酒造合資会社の店構え

先ほどとは打って変わって、室内は明るく、商品もただ並べられている。たまたまかもしれないが、店先に店員さんがいない。閉店準備を始めている様子もない…。

客の入店に気付いた女将さん?が店に出てきた。
「いらんしゃいませ~」
「あっ、こんにちは~、少し見せてください。この数軒隣のお店とは別ですよね。」
「はい、津和野には造り酒屋が3軒あります。そちらの店と、うち…、そしてもう一軒は…、ちょっと離れた場所にあります。今日はこちらにお泊まりですか?」
「いいえ、キャンピングトレーラーを道の駅長門峡に駐めているんで、クルマなんですよね。」
つまり試飲ができないのだ。これがくるま旅の最大の試練なのかもしれない…。
「それで~~、こちらは、創業はいつ頃ですか?」
「江戸中期の享保15年創業なので、もう290年近く続いています。」
「へ~、江戸時代から続いているんですか。凄いですねぇ~」

気さくな女将さんと会話をしながら、今日は手始めとして蔵出し原酒300mLを購入した。

気取らず、飾らず… 純粋に酒の質だけで勝負しているという雰囲気が漂っている。

棚の上に種類毎に並べられている
レイアウトの仕方にはそれといった工夫はないが…
それとなく展示されている表彰状が目を引く。

17時10分に店を出た。

↓ 徒歩- 550 m 6 分

津和野駅前駐車場に到着

17時15分だった。運転席に座り、今日、歩きまわった道筋を思い返した。密度の濃い津和野での1日だった。ゲートではすがすがしい気持ちで500円硬貨を投入して、領収証ボタンを押した。

行き掛けとは違う、津和野の街中を通るルートを選択した。途中、太皷谷稲成神社が遠くに望める場所があったので、クルマを駐めて眺めた。

暗くなりつつある山肌に、大文字焼送り火を連想させるかのごとく、神社の境内と表参道が浮かび上がっていた。

夕闇迫る津和野の街

↓ 車- 10.7 km 25 分 国道9号 経由

国道9号線を走っているとき、右手に営業中のナフコの看板が見えた。ちょうどいいところに…。ハンドルを右に切り、駐車場へ…。

問題解決のため、ホームプラザナフコ徳佐店に立ち寄る

17時45分になっていた。待ち構えていたようにナフコに飛び込んだのは、ここ数日、アウトランダーPHEVが起動ボタンを押すときに、キーレスオペレーションシステム関連の警告が頻発するようになってきたためだ。キーに内蔵されているボタン電池の消耗が原因だ。

以前、三菱のディーラーでスタッフに電池交換の仕方について質問しいたことがある。すると、丁寧に交換手順を説明してくれた上で「ここで電池の交換すると交換手数料がかかるので、ホームセンターで電池だけ買われて交換するといいですよ。」と言われたことが、強く印象に残っている。

入店してボタン電池を探すべく、店内を1周したのだが、初めて着た店なので両々を得ない。そこで、男性店員に相談。すると、数ある商品の中から該当する電池を探し出してきて、店の工具を使って手際よく交換してくれた。古い電池も引き取ってくれた。もちろん、交換手数料などは請求されず、電池代だけで済んだ。ありがたい…。

↓ 車- 1.8 km 4 分 国道9号 経由

阿東ショッピングセンター あぴあ

マルキュウ徳佐店は、国道9号線から1本入ったところにあるのだが、その入り口のところに阿東ショッピングセンター あぴあがある。ちょっとした出来心で立ち寄ったのだが、昼間もSL撮影で駐車場を借りたし、昨日も買い物をさせてもらった。この恩を忘れてはいけない。やはりマルキュウへ移動だ。

↓ 車- 300 m 2 分 国道9号 経由

マルキュウ 徳佐店 

18時16分。おでんの鍋に加える大根とこんにゃく、それに惣菜と飲み物を購入した。18時31分に出発。

↓ 車- 17.6 km 18 分 国道9号 経由

道の駅長門峡の南側駐車場

に18時49分に着いた。朝にパンを食べたきり、何も食べずに一日中歩き回った。途中、何度も空腹感に襲われたが、いつの間にか通り過ぎて、結局何も食べずに今になった。

北九州のマルショクで買っておいた弁当を、冷蔵庫から取り出し、湯煎で温めた。それに、おでん。これが今晩の夕食だ。

ラーメン一二三の開店を待っているときに購入した半額弁当
コッフェルに移して湯煎で温めた。コップにあるのはみそ汁
おでん

この季節、日中ならばまだ何とかなるが、日が陰ったあとは急激に気温が下がる。いくら温かい食事をとったとしても、室内が寒かったらどうしようもない。なので、ファンヒーターは冬のトレーラー旅の生命線だ。

ところが、こんなときに限って、灯油切れになることもある。

突然、ヒーターが停止したと思ったら、温度設定摘まみがけたたましく点滅している。灯油切れ発生のサインだ。ガーン!

この道の駅でもう1泊するつもりだったのに、灯油切れが発生。実は清水タンクの水もちょうど切れていた。どうしようか…。

しかし今日はまだ良い方だ。食事は採っていたが、アルコールを飲んではいなかった。それに、まだ21時前。開いているガソリンスタンドはあるだろう…。

早速、GSの検索。コスモ石油阿東SSがヒットした。ここが一番近いようだ。

トレーラーから灯油タンクを外し、クルマに積んだ。そして、20時59分に駐車場を出た。

↓ 車- 17.5 km 19 分 国道9号 経由

しかし、コスモ石油阿東SSに到着したとき、既に閉店したあとだった。それで、さらに先に走ることになる。これだったら、最初から山口の市街地に走った方が早かったのかもしれない…。

JASS-PORT徳佐で、給油と給水できた

ここが開いていて良かった。まずクルマのガソリンも満タンにし、続いて灯油タンクを満タンにした。そのついでといってはなんだが、詰め所にいたスタッフに水を10㍑分けて欲しいというと、快く承諾してくれた。

これで、トレーラーの清水タンク用の水を10リットル確保できた。

↓ 車- 17.5 km 17 分 国道9号 経由

道の駅長門峡南側駐車場

に21時49分に帰着。灯油タンクをトレーラーにセット。そして、いつもの手順で、ヘッド車からの電源供給を開始した。

これで、今晩の寒さはしのげるはずだ。

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